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素人だから言えることもある

ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(2)

日本人の大きな謎「極端から極端へ」

前項「ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(1) 」でわかったのは、キーン氏は、2点の感動と1点の謎を示した。一つは、地元商店街や街の人々の庶民性であり、一つは、震災や戦争という大きな災害にあったときでも変わらぬ穏やかな我慢強さである。謎のほうは、国谷キャスターの言う
「米英撃滅、そういうことを合言葉に戦争にひた走った日本、そして、戦争が終わった途端に一転して熱狂的なアメリカ崇拝に日本人は変わっていった。こうした日本の極端から極端へと変わっていく日本人」
ということである。変わり身の早さと、変わらぬ庶民性、この矛盾した両面が日本人には同居している。今回のエントリーは、番組の中で触れられた2冊の本からそれを紐解いていこう。

「私と20世紀のクロニクル」から

僕の文章スタイルとして、できるだけ資料を提供し、読者と情報を共有するということがある。前項「ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのか(1) 」の中に朗読された文章がある。1本目は、
<朗読>「これらの日記は時に堪えられないほど感動的で、一兵士最後の日々の苦悩が記録されていた。
(中略)
私が本当に知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者たちだったのだ」
そのことが書かれている「私と20世紀のクロニクル」(中央公論社)の元の文章はこうだ。
ある日、押収された文書が入っている大きな木箱に気づいた。文書からは、かすかに不快な臭いがした。聞いた説明によれば、小さな手帳は日本兵の死体から抜き取ったか、あるいは海に漂っているところを発見された日記だった。異臭は、乾いた血痕から出ていた。手帳に触れるのは気味悪かったが、注意深く血痕のついてなさそうな一つを選び出して、翻訳を始めた。最初は、手書きの文字が読みにくかった。しかし、今まで訳していた印刷物や謄写版で刷られた文書と違って、これらの日記は時に堪えられないほど感動的で、一兵士最後の日々の苦悩が記録されていた。

アメリカ軍の兵士は、日記をつけることを禁じられていた。敵が日記を手に入れた時に、戦略的な情報を提供してしまう恐れがあったからである。しかし日本の兵隊や水兵は、新年ごとに日記を支給され、日々の考えを書き留めることが務めとされていた。彼らは上官が日記を検閲することを知っていて、それは日記に記された感想が十分に愛国的かどうか確かめるためだった。そのため兵士たちは、日本にいる間は日記のページを愛国的な常套句で埋めたものだった。しかし、自分が乗船している隣の船が敵の潜水艦に沈められたり、南太平洋のどこかの島で自分が一人になってマラリアにでも罹れば、何も偽りを書くいわれはなかった。日記の筆者は、自分が本当に感じたことを書いた。

日本人の兵士の日記には、時たま最後のページに英語で伝言が記してあることがあった。伝言は日記を発見したアメリカ人に宛てたもので、戦争が終わったら自分の日記を家族に届けてほしいと頼んでいた。禁じられていたことだが、私は兵士の家族に手渡そうと思い、これらの日記を自分の机の中に隠した。しかし机は調べられ、日記は没収された。私にとって、これは痛恨の極みだった。私が本当に知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者たちだったのだ。もっとも、出会った時にはすでに皆死んでいたわけだが。(ドナルド・キーン著/角地幸男訳「私と20世紀のクロニクル」中央公論社)P60-61
省略されていた文章から、日米の日記の慣習の違いがうかがえる。日本兵の日記は、上官の検閲による愛国教育確認のため、アメリカ兵の日記は、敵に知られてはまずいので書くことすら許されない。日本軍の戦争は、「鬼畜米英」と言うように、敵を鬼畜になぞらえ人間以下に見下すことで成り立っているので、アメリカ軍が日記を読むなんてことを考えていなかったのではないか。もちろん、そんなことはありえないのだが。

米軍が日本兵の行動で理解しがたいこととして、こんなエピソードが取り上げられていた。
アッツ島は最初の「玉砕」の地で、アメリカ人はこれを「バンザイ突撃」と呼んでいた。5月28日、島に残留していた千人余の日本兵がアメリカ軍めがけて突撃を開始した。アメリカ軍は、かくも手ごわい抵抗のあることを予期していなかった。日本兵は、ややもすればアメリカ軍を蹴散らしそうな勢いを見せた。しかし結局は勝利の望みを捨て、集団自決を遂げた。多くは自分の胸に、手榴弾を叩きつけたのだった。私には、理解できなかった。なぜ日本兵は、最後の手榴弾をアメリカ兵に向かって投げずに、自分を殺すことに使ったのだろうか。(ドナルド・キーン著/角地幸男訳「私と20世紀のクロニクル」中央公論社)P66-67
確かに、「生きて虜囚の辱めを受けず」という自決行為は、米兵から見れば理解しがたい行為だっただろう。

「日本人の戦争 作家の日記を読む」から

2本目の朗読文章は、
<朗読>「私の眼に、いつか涙が湧いていた。いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った。
(中略)
何の頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、そして心から日本を愛し信じている庶民の、私もひとりだった。
この高見順の日記の元は番組では明らかにされなかった。でも、作家の日記というサブタイトルで検索すると容易に「日本人の戦争 作家の日記を読む」(文藝春秋)であることがわかった。この日記の引用文の前に、キーン氏はこんな文章を書いている。
昭和20年(1945)3月10日の空襲は東京の住民を恐怖で戦慄させたが、空襲を受けなかった町に住む人々も似たような恐怖を経験した。かなりの数の作家が住んでいた鎌倉では、アメリカ軍の上陸が間近に迫っているという噂が飛び交い、予想される侵略に備えて海軍があわただしく防御陣地を構築した。鎌倉は、後でわかったことだが爆撃を受けなかった。しかし住民たちは、歴史的重要性と由緒ある寺々のためにアメリカ軍が鎌倉を攻撃目標からはずすとは、とても思えなかった。

高見順は鎌倉の安全性に危惧を抱き、母親を田舎に疎開させることにする。上野駅では、少しでも安全な所へ逃げようと必死になっている罹災民で満ちていた。前年いた中国で目撃した光景を思い出し、高見は日記の中で中国人と日本人を比較している。上野駅ほど混雑していたわけでもないのに中国人は大声でわめき立て、あたりは大変な喧噪だった。そうした喧しい中国人に比べて、おとなしく健気で、我慢強く、謙虚で沈着な日本人に、高見は深い感銘を受けている。

私の眼に、いつか涙が湧いていた。いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った。否、私も、――私は今は罹災民ではないが、こうした人々の内のひとりなのだ。怒声を発し得る権力を与えられていない。何の頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、そして心から日本を愛し信じている庶民の、私もひとりだった(ドナルド・キーン著/角地幸男訳「日本人の戦争 作家の日記を読む」文藝春秋)P102-103
この本には、30人に及ぶ作家の日記を時系列に沿って紹介されている。なお、本の中の日記引用箇所は青字にした。僕は、高見順の日記にこだわって書いていく。

8月15日終戦
早くも終戦翌日の8月16日、日記作者たちは戦時中に自分が演じた役割について思い巡らしている。高見順は、次のように書く。

私は日本の敗北を願ったものではない。日本の敗北を喜ぶものではない。日本に、なんといっても勝って欲しかった。そのため私なりに微力はつくした。いま私の胸は痛恨でいっぱいだ。日本および日本人への愛情でいっぱいだ。

しかしこう書いたすぐ後で、高見は不愉快な出来事を思い出す。昭和19年11月、ハルピンでのことだった。高見は、ロシア人のバンドが演奏し、ロシア人の男女が舞台で踊るキャバレーへ行った。客は日本人の将校ばかりで、ウォトカに酔い痴れ、放歌高吟していた。演奏するロシア人や踊り子たちに、日本の将校があまりにみっともない振る舞いをするので、高見は同胞として深く恥じた。

……(引用者注・当時の)日記には書いてないが、こんな日本人がこのまま勝ったらどういうことになるだろうとその時思ったことを覚えている。その時、――その時だけではない。しばしばそう思わせられることがあった。
私は日本と日本人を愛する。だからこそ、かかる日本人を許せないのだ。かかる日本人を許し甘やかしますます増長させるところのいわゆる日本主義的な議論を許せなかった。(ドナルド・キーン著/角地幸男訳「日本人の戦争 作家の日記を読む」文藝春秋)P139-140)
8月21日
読売報知新聞で、科学と芸術の振興を唱えているトップ記事を読んだ高見は、「虐待されてきた文学も今度は自由が得られるだろう」と書いている。その記事に明るさがあることは認めても、新聞の節操のなさに、高見の心は晴れない。同日の日記の後半で、高見は読売報知の記事に対する自分の反応をさらに詳細に記している。

朝、急いで書いたので胸の中のもだもだをとくと突き止めることができなかった。「心は晴れない」と簡単に書いたが、事実はもっと激しく、不快なのであった。腹が立っていた。

よくもいけしゃあしゃあとこんなことがいえたものだ。そういう憤怒である。論旨を間違えていると思うのではない。全く正しい。その通りだ。だが如何にも正しいことを、悲しみもなく反省もなく、無表情に無節操に言ってのけているということに無性に腹が立つのである。常に、その時期には正しいことを、へらへらといってのける。その機械性、無人格性がたまらない。ほんの一か月前は、戦争のための芸術だ科学だ、戦争一本槍だと怒号していた同じ新聞が、口を拭ってケロリとして、芸術こそ科学こそ大切だとぬかす、その恥知らずの「指導」面がムカムカする。莫迦にするなといいたいのである。戦争に敗けたから今度は芸術を「庇護」するというのか。さような「庇護」はまっぴら御免だ。よけいな干渉をして貰いたくない。さんざ干渉圧迫をして来たくせに、なんということだ。非道な干渉圧迫、誤った統制指導の故に、今日の敗戦ということになったのだ。その自己反省は棚に挙げて、またもや厚顔無恥な指導面だ。いい加減にしろ! (ドナルド・キーン著/角地幸男訳「日本人の戦争 作家の日記を読む」文藝春秋)P152-153

10月5日
「ライフ」に載っているムッソリーニが情婦と一緒に全裸で木に逆さ吊りにされている死体写真を、友人が見せてくれた。それは、見るに忍びない残虐さだった。高見は書いている。

私はムッソリーニに同情を持っている者ではない。イタリー・パルチザンムッソリーニへの憤激にむしろ共感を感ずる。しかしこの残虐は――。
日本国民の東条首相への憤激は、イタリー国民のムッソリーニへのそれに決して劣るものではないと思われる。しかし日本国民は東条首相を私邸から曳摺り出してこうした私刑を加えようとはしない。

高見は友人に、「日本人はおとなしいね」と言う。「小羊のごとく――」と友人は答える。続けて、高見は日記に書く。

そうだ、日本人はある点、去勢されているのだ。恐怖政治ですっかり小羊の如くおとなしい、怒りを言葉や行動に積極的に現わし得ない、無気力、無力の人間にさせられているところもあるのだ。東条首相を逆さにつるさないからといって、日本人はイタリー人のような残虐を好まない温和な民とすることはできない。
日本人だって残虐だ。だって、というより日本人こそといった方が正しいくらい、支那の戦線で日本の兵隊は残虐行為をほしいままにした。
権力を持つと日本人は残虐になるのだ。権力を持たせられないと、小羊の如く従順、卑屈。ああなんという卑怯さだ。しかしそれも日本においては、人民の手からあらゆる権力が剥奪されていたからだ。だから権力を持たせられると、それを振いたくなる。酷薄になる。残虐になる。逸脱するのだ。それは人民の手に権力が与えられていなかったための一種のヒステリー現象だ。可哀そうな日本人。

10月6日、高見は連合司令部の指令ですべての政治犯が釈放され、特高警察が廃止されたことを新聞で知った。

胸がスーッとした。暗雲が晴れた想い。しかし、これをどうして連合司令部の指令を俟たずして自らの手でやれなかったか、――恥かしい。これが自らの手でなされたものだったら、喜びはもっと深く、喜びの底にもだもだしているこんな恥辱感はなかったろうに。(ドナルド・キーン著/角地幸男訳「日本人の戦争 作家の日記を読む」文藝春秋)P181-183

プリンシプルのない日本

1945年3月から10月までのわずか半年の動きである。終戦後、わずか1週間で、新聞も大本営発表から無反省で転向。このような手のひら返しは、日本では数限りなくある。例えば、原発問題。原発事故が起きた途端、原発反対派が一斉に増えてきた。宮島理氏は、「正義」を簡単に着替える日本人でこう書いている。
日本人は何も変わっていない。無定見に「正義」を着替え、いかなる「正義」にも便乗しない者を絶えず感情的に攻撃する。

敗戦は、日本人がその責任から逃れるために、古い「正義」をスルリと脱ぎ、新しい「正義」を羽織った時代だった。そこには合理的説明も省察も何もなく、効力の失われた「正義」を捨て、新しい「正義」を拾うという、醜い自己保身があるだけだったのである。(「正義」を簡単に着替える日本人)

これはまた、白洲次郎の「プリンシプルのない日本」(新潮文庫)に似ている。
何と何がどうかしない間は「戦後」は終わらない、とか、「戦後」はまだ続いているとかいうことをよく耳にする。私は「戦後」はまだ続いているとかいうことをよく耳にする。私は「戦後」というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。前の戦争が厳然たる事実であるかぎり、歴史の一頁は永久に残ると考える。戦後は永久に続くという考え方だ。

この「戦後」の一、二の例をとってみよう。新憲法は占領軍によって強制的に国会を通過して成立したものであることは誰でも知っているはずだ。今や新憲法はどうのこうのと話は毎日聞くが、新憲法の精神というか、それを貫いているプリンシプルは何かということを、考えてみた人は何人いるだろうか。占領軍からのお土産品のデモクラシーも同じである。我々が現在声たからかに唱えている新憲法もデモクラシーも、単なる、かりものの域を脱しているとは思わない。我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。新憲法なりデモクラシーがほんとに心の底から自分のものになった時において、はじめて「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう。

これで思い出すことは、プリンシプルのことだ。プリンシプルは何と訳してよいか知らない。原則とでもいうのか。日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたきこまれたものらしい小林秀雄が教えてくれたが、この教育は朱子学の影響によるものとのことである。残念ながら我々日本人の日常は、プリンシプル不在の言動の連続であるように思われる。(白洲次郎著「プリンシプルのない日本」新潮文庫)

これは1969年の記事である。40年前の記事なのに、なぜか日本人にぴったりくる。「戦争が終わった途端に一転して熱狂的なアメリカ崇拝に日本人は変わっていった」のも、日本人に原則であるべきプリンシプルがなかったからではないのか。だから、欧米人が日本人の行動が理解できなかったのも当然ではないだろうか。それはまた、日本人の美徳である、「穏やかで我慢強さ」もこのプリンシプルのなさが影響しているのかもしれない。

抜き書き・マイケル・サンデル 究極の選択「大震災特別講義〜私たちはどう生きるべきか〜」(1)ニューヨークタイムズが日本人をほめそやした、
日本の混乱の中での秩序と礼節。悲劇に直面しての冷静さと自己犠牲、静かな勇敢さ。これらは、まるで日本人の国民性に織り込まれている特性のようだ
というのが話題になった。そこで作家の石田氏は、
こういう災害に起こるとですね。それぞれの国の地の部分が浮き上がってきますよね。で、マイケルさんがおっしゃってるような、そのコミュリタリアニズム(共同体主義)の規範というのは、日本人の場合は、思想かとかではなくて、生活の中にしみ込んでしまって、トラブルがあるたびに出てくるんですよ。ですから、外国のメディアで暴動や窃盗が起こらなかったことが奇跡だというのがありましたけれど、それが日本では、まったく当り前です。ええ、そういう災害の現場で、盗みが起こるようなことは誰も想定していないですね。
プリンシプルと個人主義にどうつながっているかわからないが、日本人のプリンシプルのなさがこのような日本人の美徳の「我慢強さ」を築いているのではないだろうか。
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