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大伴昌司と金城哲夫(1)(ウルトラ幻想曲・2)

早逝した天才・大伴昌司と金城哲夫

現在、WOWOWで「ウルトラQ」のHDリマスター版が放送されている。実は、今年はウルトラQが放送されて45年にあたるという。これを記念して、過去に書いたウルトラ幻想曲の続編を書いてみたい。その歴史を詳述するスペースもないので、2人の36・37歳で亡くなった大伴昌司と金城哲夫の年代記をクロスさせて、ウルトラ時代草創期をとりあげてみたい。

年表(1) 生い立ちと大学卒業まで

1936年3月26日 大伴昌司(本名四至本豊治)、国際ジャーナリスト四至本八郎とアイの息子として東京市本郷区の順天堂医院に生まれる。

1938年-1941年 大伴昌司、父の任地メキシコで育ち、アステカのピラミッドや石像から大きな影響を受ける。このときの体験が、のちの怪獣ブームの生みの親となる素地を築いたといわれている。

1938年7月5日 獣医の父金城忠榮と母つる子の間に長男哲夫が生まれる。忠榮はこの時、麻布獣医学校(現麻布大学)に入学しており、妻つる子と二年間上京していた。出身は沖縄県島尻郡南風原町だが、哲夫は芝の産院で生まれた。

1941年10月 大伴昌司(5歳)帰国。戦時中は母親の郷里である福島に疎開。

1945年-1951年 大伴昌司(9歳-15歳)終戦後、東京に戻り、品川区立御殿山小学校から慶應義塾普通部を経て慶應義塾高等学校に進んだ。高校時代に「映画芸術研究会」で紀田順一郎と知り合う。

1954年4月 大伴昌司(18歳) 慶應義塾大学文学部東洋史学科に入学。

1954年4月 金城哲夫(15歳)、那覇高校の受験に失敗、上京して玉川学園高等部に入学。金城哲夫と玉川学園のつながりは、玉川学園創立者小原國芳が、本土復帰以前の1952年に沖縄講演をし、たまたま小原が贈った図書を母のつる子が読んだため。

1954年11月3日 東宝映画「ゴジラ」(本多猪四郎監督・円谷英二特技監督)公開

1956年3月 金城哲夫(17歳)中心に「玉川学園沖縄慰問隊」(男子9名・女子8名・教諭2名)を結成し、その壮行会が3月8日に開かれた。その模様がNHKテレビニュースで放送された。当時の沖縄は、アメリカの軍政下にあり本土復帰されていなかった。

1957年4月 金城哲夫(18歳)、高等部卒業、玉川大学文学部教育学科入学。玉川学園高等部の時の担当講師、上原輝男教諭は、玉川大学文学部の専任講師となり、2人の師弟関係は緊密となった。当時、上原教諭は、東宝の円谷英二監督から「竹取物語」のシナリオ化を依頼されていた。上原教諭と円谷英二の関係は、英二の次男皐(のぼる)を玉川学園高等部で担任したのが縁。上原は、「竹取物語」を戯曲化した加藤道夫の名作「なよたけ」をシナリオ化することで依頼にこたえようとした。金城は、学業の合間に上原の「なよたけ」のシナリオの清書を手伝った。

1958年4月 大伴昌司(22歳)、慶應義塾大学文学部東洋史学科を卒業し、同大学法学部政治学科3年次に学士入学。大学では、紀田順一郎らとともに慶應義塾大学推理小説同好会(大伴らの入学2年前に仮結成されていたものを、田村良宏(後のSRの会会長)らが本格立ち上げ)に参加。このころから旺盛な執筆欲を見せる。

1959年 大伴昌司(23歳)、大学卒業後は『アサヒグラフ』の編集部に入ることを希望していたが、卒業間際に肺を病んだため就職を断念。

1959年夏 金城哲夫(21歳)が、上原輝男に伴われて初めて円谷英二家を訪問。
円谷英二は、映画関係者ながら、これからはテレビが伸びると信じて長男一(はじめ)はTBSに、次男皐(のぼる)をフジテレビにディレクターとして入社させている。これが、結果としてTBSの「ウルトラQ」の成功に結びついている。さて、円谷英二は、訪ねてきた金城哲夫をシナリオ作家として育てるために、「ゴジラ」の脚本家関沢新一に哲夫にシナリオの書き方を教えてやってくれと依頼した。

年表(2) 円谷プロ発足

1960年 大伴昌司(24歳)、不動産鑑定士の資格を取り、さらに株式の投資で蓄財。同じころ、東京都大田区池上の自宅敷地内にスチュワーデス専用のアパートを建てる。
また、紀田、桂千穂とともに、SRの会東京支部を結成。

1961年早春 金城哲夫(22歳)デビュー作「絆」が、TBSで円谷一(はじめ)の演出のもとに放送された。

1961年 大伴昌司(25歳)、商業誌には『マンハント』の連載コラムでデビュー。同年『宝石』の推理作家インタビュー「ある作家の周囲」を連載開始。

1962年2月 金城哲夫(23歳)シナリオ第二作「近鉄金曜劇場・こんなに愛して」。そのあと、順調にテレビシナリオが続く

1962年9月 金城哲夫(24歳)、久保田裕子(24歳)と沖縄で挙式。

1962年11月 大伴昌司(26歳)、『ヒッチコック・マガジン』に「ショウ番組は花盛り」

1963年 大伴昌司(27歳)、紀田、桂と「恐怖文学セミナー」を結成し、同人誌「ホラー」を発行。同会には同人に荒俣宏がいた。

1963年 大伴昌司(27歳)、『SFマガジン』にインタビュー記事「SFを創る人々」を連載開始。また同年に創設された日本SF作家クラブの二代目事務局長(1965年)として、草創期の日本SF界に関与。またSF映画評論を『SFマガジン』等に発表。

1963年4月12日 円谷英二の私設研究所、円谷特殊技術研究所は、この年、株式会社円谷特技プロダクション(以下円谷プロ)として、正式に発足。目的はテレビへの進出。前述したように、長男一(はじめ)のTBS、次男皐(のぼる)のフジテレビのディレクターとして太いパイプがすでにできていた。
このころ、日本のテレビ業界では、コンテンツとしてアメリカ製作の外国ドラマに大きく依存していた。その中で、金城が注目していたのが「アウター・リミッツ」や「トワイライトゾーン」(日本名ミステリーゾーン)。

大伴昌司と金城哲夫の最初の接触

最初に企画したのが、フジテレビ製作予定の「WOO」。ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方(山田輝子著/朝日新聞社)によると、金城哲夫はこんな企画書を書いている。
……アンドロメダ星雲のWOO星は地球によく似た星である。ある日、妖星との衝突でWOO星は大爆発、一人だけが脱出に成功して地球に飛び込み、台風に乗って日本にやってくる。さてそのWOOは……

主人公は湖や海を好んで住むアメーバ状の宇宙生物である。機械文明の発達で働く必要がない星から来た、いたって呑気でユーモラスななまけものである。だがWOOは正義漢だった。カメラマン秋田譲治や助手の団太郎と協力して怪事件を次々と解決し、怪獣をやっつけ、宇宙からの侵略者に立ち向かう。(山田輝子著「ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方」朝日新聞社)

面白いことに、このWOOのパイロット脚本に大伴昌司が参加している。それが「WOOと爆発狂」(脚本・大伴昌司)(上原正三著「金城哲夫―ウルトラマン島唄」筑摩書房)というものだという。当時、大伴昌司は、日本SF作家クラブのメンバーであった。
1963年初頭、円谷プロのテレビ進出第一弾として「WOO」が企画された。放映はフジテレビの予定だった。フジテレビの映画部には次男の皐がおり、皐も円谷プロのテレビ進出に積極的だった。

円谷監督は、築地の割烹「田村」に日本SF作家クラブの先生方を招待した。「田村」は当方が接待に利用していた割烹であった。円谷監督はこれまでにも幾度となくここで日本SF作家クラブとアイディア会議を重ねていた。SF作家たちと和気あいあいに談笑するうちに面白いアイディアが飛び出すことがある。円谷監督はSF作家たちの突拍子もない発想を大事にした。1963年に封切られた特撮映画「マタンゴ」は星新一福島正実の原案であった。

円谷監督は、「WOO」を成功させるために万全の気配りを見せたのだ。その日の会合は福島正実半村良光瀬龍、大伴昌司、そして星新一日本SF作家クラブの錚々たる顔触れが揃った。そこで「WOO」への協力を依頼、全面協力を取りつけた。その時、末席には接待役を仰せつかった金城哲夫と熊谷健がいた。

「WOOはトイレを逆さに見たようなもんですね。おしりからウンチがたれているイメージです」トイレから戻った星新一は真面目な顔でそう言ってみんなを笑わせた。

帰りの電車で金城が天井を見上げている。

「どうしたんです?」熊谷が怪訝に訊ねた。

「いや、星さんのさ。ほらトイレ」金城は、トイレを逆さに見る星新一の奇抜なアングルに感心しているのであった。

「素材を料理する時は表裏だけじゃダメなんだよな。上からも下からも見なくちゃ」ボソと呟いた。
円谷監督の依頼を受けた日本SF作家クラブは卓抜なアイディアを次々と出し、サンプルストーリーを書いた。(上原正三著「金城哲夫―ウルトラマン島唄」筑摩書房)

ところで、SF作家クラブの大伴昌司の立場が異色だと思わないだろうか。他のメンバーは、現在でも通用する有名なSF作家たちである。ところが大伴昌司のSFなど、誰も読んだことはないだろう。彼は博覧強記ではあるが、コラム記事などの雑学的な読み物には向いていても、1本芯の通った小説には向いていなかったのだ。また、大伴昌司の円谷プロとの関係を端的に表すと、
大伴が円谷プロという星雲を形づくる星々の一つだったことは確かだが、その輝きが強いか弱いかは、円谷プロという内側から見るか、あるいは外側から眺めるかという位置の違いによって、はっきりと異なる。

(中略)

最も単純な事実は、大伴は円谷プロの社員または契約ライターではなく、円谷プロの“梁山泊”的雰囲気にむかえられて自由に出入りし、自由に動き回っているフリーランスの人間だったということである。(竹内博編「証言構成OHの肖像―大伴昌司とその時代」飛鳥新社)

この「証言構成OHの肖像―大伴昌司とその時代」には、「金城哲夫―ウルトラマン島唄」を書いた円谷プロの文芸員だった上原正三の証言が載っている。
大伴さんに初めて会ったのは昭和40年だと思いますね。ぼくが円谷プロでメッセンジャーみたいなことを始めた時には、あの方はもうすでに出入りしてらして、週に2,3回はおいでになってましたね。

お見えになると、必ず文芸部に顔を出されるんです。ぼくも一緒によくお茶を飲んだりしましたけれども、金城や僕にはすごく親しみを込めて接してくれましたね。
円谷の社員でもないし、SF作家でもないし、ぼくはあの方は最後までよくわからなかったんですけれども、とにかく不思議な方で、いつも週刊誌やら何やらをいっぱい抱え込んで入ってきて、円谷の文芸部でバリバリ破るんです。

もう、ほんとうに無造作に破っていくんです。それで、自分に必要なページだけ取って、あとはゴミ箱にポンと捨てるんです。つまり、彼はそうやってこつこつ資料を集めていたんですね。

あれはとにかく、こまめというか、ぼくなんかとても真似のできない部分で、いつもびっくりして見てましたね。飽きもせず、来るたび来るたびやってましたよ。

風のように現れで、あたりが柔らかく、博識でね。あのころからあれだけ円谷に通いつめていたというのは、やっぱり円谷がこれからテレビでひとつの時代を作るなということを予感していたのかもしれませんね。

そうでなきゃ、あんな社員でもないのに週に2,3回も顔出せませんよ。テレビの評論家でもないしね。

一度、大伴昌司編の「ウルトラマン」の本というのをいただいたことがあったんです。その時は、「ああこんなことやってるのか」と思いましたけれども、あのころの円谷の文芸部というのは、ほんとうにいろいろな人が気楽に出入りしてたんですよ。それができたというは金城哲夫のキャラクターですね。構えたところがまったくないんですよ。来た人は誰でも受け入れちゃうみたいな、すごい包容力があったんです。

金城哲夫は企画室の室長というより、シナリオライターですね。円谷プロの頭脳だったような気がします。非常にエネルギッシュな人で、そういう点では大伴さんと金城もよく似てましたね。二人ともオールマイティという感じでね。何でもできるような感じでした。

大伴さんは将来はシナリオを書きたいと、ぼくらにはよく話してましたけど、円谷にはべつに彼の特別な席があったというわけじゃないんです。あの人はそういうことには一切こだわらないで自由になさってましたね。大伴さんにとっては、円谷プロはきっと居心地がよかったんだと思いますよ。金城哲夫もいればぼくなんかもいて、話し相手には不足しませんしね。それで周囲には何か活気があって、次々に変なものを作っている。そういうものが好きだったんじゃないですか。

ここから何か大きなものが生まれそうだということは、すごく期待していたでしょうしね。それは僕ら以上に予見していたんじゃないでしょうか。(1988.2.28) (竹内博編「証言構成OHの肖像―大伴昌司とその時代」飛鳥新社)

さて、話を「WOO」に戻す。しかし、この「WOO」の企画は没になった。製作費が折り合わなかったためである。当時の1本のドラマ製作費150万円に比べて実に三倍の538万円かかる。しかも、円谷監督は、ニューヨークのオックスベリー社から最新式のオプチカル・プリンターを当時のレートで4000万円で購入するつもりだった。特撮には、オプチカル・プリンターによる合成技術が欠かせない。そのため、今度はTBSに命運をかけた。今度のタイトルは、「アンバランス」。金城哲夫の書いた企画書によれば、
われわれが生きているこの世界は、自然界の調和とバランスによって支えられている。そして、調和とバランスの法則が、絶対に狂わないという前提を信じて、我々は安心して暮らしている。しかし、科学法則上の絶対は、それが狂う確率が何万分の一、あるいは何億分の一かにすぎない、というだけの意味でしかない。そして、もし、或る日、突然、何億分の一の可能性が現実のものとなり、奇妙な出来事が――。平和な日常生活の一角が、歪みを生じたとすれば……。(山田輝子著「ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方」朝日新聞社)
この「アンバランス」はTBSと無事に13本、7千万円の契約を結び撮影を開始した。ところが、TBSから来た新しい担当の栫井巍(かこい・たかし)プロデューサーにより、方針が変わってしまう。いわく、
「宇宙もの、異次元もの、怪奇もの、怪獣ものとバラエティに富んでいておもしろいが、視点が定まっていない。こども向けあり、おとな向けあり、スタイルも一定していない。規格を統一する必要がある。」(山田輝子著「ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方」朝日新聞社)
初めは、日本版「トワイライト・ゾーン」を狙っていた作品が、いつの間にか規格を統一せよという。栫井プロデューサーは、「怪獣ものは出来栄えがよいから、怪獣もので統一してはどうか」という。タイトルも「ウルトラQ」と名前を変えた。
もちろん、このタイトルは東京オリンピックで連発された「ウルトラC」とQUESTIONをもじったものである。(「ウルトラC」については「ウルトラ幻想曲」を参照)怪獣ものということで、割を食った作品も出た。28本目の「あけてくれ!」この作品のシナリオは金八先生の小山内美江子だが、
当初は第20話として1966年5月15日の放映を予定していたが、同年4月末頃、「怪獣が出ないうえにストーリーが難解」という理由で本放送を見送ることが決まり、初回再放送時の1967年12月14日に第24話として初めて陽の目を見たため、新24話とも呼ばれている。これにより、当初の放送開始日から一週繰り上がった1966年7月10日に『ウルトラマン』の第1話「ウルトラ作戦第一号」を間に合わせることが困難な状況になってきたため、穴埋め処置として、1966年7月10日には杉並公会堂で収録された「ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生」が放送された。(ウルトラQ-Wikipedia)
(年表資料は大伴昌司-Wikipedia 金城哲夫-Wikipedia竹内博編「証言構成OHの肖像―大伴昌司とその時代」飛鳥新社、山田輝子著「ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方」朝日新聞社上原正三著「金城哲夫―ウルトラマン島唄」筑摩書房の5点。)

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