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素人だから言えることもある

大伴昌司と金城哲夫(2)(ウルトラ幻想曲・3)

年表(3) ウルトラマンと怪獣図鑑

19641010 東京オリンピック開催

1964 大伴昌司(28歳)、『ぼくら』で「恐怖文学セミナー」を連載

1965 金城哲夫(26歳)、「ウルトラQ」製作

19651 上原正三、円谷プロに入社

19655 大伴昌司(29歳)、『SFマガジン』に「トータル・スコープ」連載

19659 大伴昌司(29歳)、『ボーイズライフ』で、「SF事典」。廃刊まで定期的に執筆

196612 金城哲夫(27歳)、TBS「ウルトラQ」放送開始

196658 大伴昌司(30歳)『少年マガジン』で「ウルトラQのすべて」を皮切りに、毎週『少年マガジン』で図解特集を組んだ

1966717 金城哲夫(28歳)、TBS「ウルトラマン」放送開始

196610 大伴昌司(30歳)編「怪獣大図鑑」(朝日ソノラマ)発売

196612 大伴昌司(30歳)編「怪獣画報」(秋田書店)発売

196711 サンデー毎日に「怪獣大行進」の特集、構成・文は大伴昌司(30歳)

19673 大伴昌司(30歳)編「怪獣解剖図鑑」(朝日ソノラマ)発売

19673 大伴昌司(30歳)編「図解怪獣図鑑」(秋田書店)発売

1967514 朝日新聞で浩宮様が「怪獣図鑑」を手に取る姿が報道

1967528 サンデー毎日に怪獣メーデーが開かれた記事。文は大伴昌司(31歳)

1967101 金城哲夫(29歳)、TBS「ウルトラセブン」放送開始。半年間の「キャプテンウルトラ」をはさんで、再び、円谷プロ製作

大伴昌司、円谷監督から出入り禁止処分

この3年ほどは、円谷プロも、大伴昌司も怪獣ブームで儲けているように見える。でも、円谷英二監督は、大伴の解剖図巻に我慢ならなかった。
ウルトラQ」から「ウルトラマン」へ。今や円谷プロの特撮作品は向かうところ敵なしの快進撃だった。視聴率のアップと連動するように怪獣ブームも加熱する。各雑誌社がウルトラマンや怪獣を特集すれば、玩具業界はウルトラマンや怪獣の玩具を作って売りまくった。ノート会社までキャラクター商品を出した。営業の津田は「めし食うヒマもないよ」と嬉しい悲鳴をあげた。金城も怪獣工房の頭脳として雑誌や新聞に顔を出すことが多くなった。

企画室に足繁く出入りしていた大伴昌司も怪獣図鑑などを朝日ソノラマ秋田書店から次々と出版して怪獣評論家の称号を与えられるに至った。そんな折り朝日ソノラマから出版した「怪獣解剖図鑑」は円谷英二監督の逆鱗に触れた。大伴は怪獣を腑分けして解説をつけたのである。円谷監督は日頃から「怪獣は子供達の夢だ。その夢を壊してはいけない」と言い続けた。

(中略)

円谷監督は、怪獣の着ぐるみから役者が顔を出している写真の雑誌掲載も嫌った。子供の夢を壊してはいけないが口癖だった。円谷監督は、大伴の「怪獣解剖図鑑」に激怒した。大伴は円谷プロ出入り禁止の状態になった。

(中略)

出入り禁止状態の大伴昌司だったが、月に一度か二度は顔を出した。忍び足の感じで来て企画室を覗く。

「どうぞ」金城は邪険にはしない。大伴とは「WOO」以来の長い付き合いだ。

「神秘性って? 怪獣に神秘性があるんですか」

「そりゃありますよ。確かに凶暴なだけの怪獣もある。だけど凶暴な怪獣だけじゃありませんよ。その土地に棲みついたですね、なんていうか守護神みたいな怪獣だっているわけです。ウーのような。ピグモンだって立派な怪獣ですよ」

「ぼくの考えは違うんです。怪獣はあくまでも怪獣、人類に敵対する存在。でっかくて、凶暴で醜悪で、モンスターですよ、モンスター」

「大伴さんはSF作家だから、アメリカ、ヨーロッパの影響が強い。だから怪獣を腑分けできるんですよ」

「怪獣を腑分けしたのは、武器とか性能をビジュアルにしたくて、誤解された部分もあるんです」

金城は「怪獣解剖図鑑」を大伴が出版したことに対して激怒した円谷監督の怪獣に対する思いを代弁すると同時に自説を展開して議論になった。

「ぼくは怪獣にも人権というか、いや、獣権というか、そんなものがあると思うな」

「獣権? だったらその怪獣をやっつけるウルトラマンはなんですか」

「だから、ぼくは何度も言ってます。ウルトラマンは怪獣の殺し屋ではない」

「でも怪獣を退治している。」

「殺すつもりはないんです」

「えッ?」

「お前、やめろよ、そんな悪さやめろ。早く帰れ、山でも海でも、巣に帰れ」

「ウルトラマンが?」

「そうてす。諭しているんですよ、初めは、それでも悪さをやめないから懲らしめるんです」

「懲らしめる?」

「そうです。それも仕方なく懲らしめるんです。よーく見てご覧なさい。ウルトラマンの顔。怪獣に話しかけていますよ。怪獣にもいろいろな性格があるから、きかん気の強いヤツ、生まれながらの乱暴者とか」

たしかに金城には怪獣に心情移入した作品が多かった。怪獣が暴れるには、それなりの理由があるはずだ。人間が一方的に怪獣を悪者にしてやっつけることを許さなかった。(上原正三著「金城哲夫―ウルトラマン島唄」筑摩書房)

年表(4)円谷英二死去と2人の晩年

196846 金城哲夫(29歳)、フジテレビ「マイテイジャック」(1時間番組)放送開始。

19685 円谷英二の次男、フジテレビを退社し、円谷エンタープライズを設立。

196876 金城哲夫(30歳)、フジテレビ「戦え!マイテイジャック」(視聴率不振のために30分番組に衣替え)放送開始。

1968915 金城哲夫(30歳)、「ウルトラセブン」の後としてTBS「怪奇大作戦」放送開始。

19693 金城哲夫(30歳)、円谷プロを退社し、沖縄に帰郷。

19696 金城哲夫(30歳)、琉球放送のラジオ番組「モーニング・パトロール」のキャスターに就任。テレビにも出演。

1970125 円谷英二急性心不全で死去。(享年68歳)金城哲夫(31歳)上京。弔辞を読む。

1970126 大伴昌司、新聞で葬儀にコメント。

1970 大伴昌司(34歳)、国際SFシンポジウムをマネージャーとして取り仕切る。

1972515 沖縄本土返還。

1973127 大伴昌司、日本推理作家協会の新年パーティの席にて、気管支喘息治療用の気管支拡張剤エフェドリンの副作用により心臓発作を起して急死。享年36。

197329 円谷一死去。享年41歳。2月11日の葬儀に金城哲夫(34歳)上京。このころから、金城はアルコール依存の症状があり、沖縄の母のつる子から「酒を飲ませてくれるな」という電話があったという。

1975719 沖縄国際海洋博覧会。金城哲夫(36歳)に開会式・閉会式などのセレモニーの制作・演出の仕事に従事。

1976223 金城哲夫、泥酔した状態で自宅2階の仕事場へ直接入ろうとして足を滑らせ転落。直ちに病院に搬送されたものの、治療の甲斐なく、3日後の2月26日に脳挫傷のため死去。享年37。

円谷英二写真集

大伴昌司に「円谷英二 日本映画界に残した遺産」という遺作がある。大伴昌司の世界でこう紹介されている。
大伴昌司が渾身の力を込めて作った写真集であり、大伴の遺作でもある。  クレジットは、円谷家に敬意を払って編者が円谷一(英二の長男)になっているが、 「実際の企画・構成・レイアウトなど、ほぼ100%、大伴さんが一人でやり切ったんですよ。
その仕事ぶりには、鬼気迫るものがありましたよ。」とは、この本に携わった小学館の担当者からの証言である。大伴昌司が渾身の力を込めて作った写真集であり、大伴の遺作でもある。(大伴昌司の世界)
上原正三氏が、大伴昌司の亡くなる2日前に円谷一氏からサイン入りで贈られたという。
私は、その2日前、円谷一から本を贈られた。一のサイン入りであった。「円谷英二・日本映画界に残した遺産」、円谷英二の生涯の足跡を写真を交えて展開した見事な装丁の本であった。裏表紙にレイアウト・大伴昌司の名があった。怪獣の腑分けをした図鑑を出版したために円谷英二の怒りを買って以来、円谷プロとも一とも疎遠になっていたのだが、大伴の編集能力の高さを必要としたのだろう。大伴も満足のいく仕事であったろうと思った。私は企画室での金城との怪獣論争を思い出した。それにしても36歳は若すぎると思ったものだ。だが金城の日記には大伴のことが触れられていない。訃報が届かなかったのだろうか。(上原正三著「金城哲夫―ウルトラマン島唄」筑摩書房)
この写真集のいきさつについて2人の証言があった。
『写真集』は初版3000ですよ。市販にしたのが2000部くらいかな。これにまつわる話というのは、ご存知だと思うけど、大伴さんがスポーツ紙で円谷プロの悪口を言ったんです。英二さんが亡くなられて、その葬儀があったとき。

大伴さんはほめたつもりで書いたんです。だけど、一さんが怒っちゃったんです。大伴がこんなこと言ったって。

大伴さんは、英二さんが亡くなってお葬式があった時、もっとたくさん人が集まると思ったらしいんですね。それが少なかったと判断して、大伴さんとしては、円谷プロ、もっとがんばれというような、励ましのつもりだったんですよ。署名記事じゃなくて、コメントです。スポーツ新聞の芸能欄に掲載されたんです。

その後、かなりたってから、「一さんと仲直りさせてくれないか」みたいなこと、ある日、ちょこっと言ったんです。それじゃというんで、作戦を準備したんですが、ちょうど円谷プロ10周年なんで、英二さんの写真集を作ってくれないかという話が一さんからあったんだ。で、ぼくは「これ、大伴さんに作らせましょう」といったわけですよ。一さんは「ウーン」と言って目をギョロギョロ……。

とにかく、そのあとです。三人でどこかで会ったんだ。ぼくは両者をずっと知ってたからね。たしか、畳の部屋でしたよ。大伴さん、畳に手をついて「そういうつもりではなかった。申し訳なかった」と謝りましたよ。それで、全部水に流してね。三人で『写真集』をどういうふうに作ろうかという大筋の話をして、一さんもその場で「それはもう、大伴さんに任せる」ということになったわけなんです」(井川浩『元・小学二年生編集長』)(1988.1.6)( 竹内博編「証言構成OHの肖像―大伴昌司とその時代」飛鳥新社)

円谷英二写真集』はねえ、これいろいろありましてねえ。亡くなる前の年末ぎりぎりにできたんですよ。ぼくが大伴さんの窓口みたいになってたけど、これはほんとに、大伴さんがほとんど一人でやったんですよ。

で、亡くなった日だと思うんだけど、ぼく、大伴さんに電話もらったんです。

何の用件だったのかなあ。やっぱり、『写真集』の件じゃなかったかと思いますけど、あの日、亡くなる前に大伴さんが電話かけてきたんです。革製の特製本を作ることになっていて、それを気にしてましたから。やっぱり、「あれ、いつできる?」みたいな話だったのかもしれませんね。とにかく、その電話をもらった翌朝に、大伴さんが亡くなったって聞かされて、初めて大伴さんの仕事場に行ったんです。

『写真集』の編集実務はぼくがやっていました。でも、あの時の大伴さんの執念みたいなものは特にすごかったですよ。これはもう誰にも一切タッチさせないという感じで。レイアウトから何から、全部きっちり決めて持ってきましてね。こっちは手をつける余地なんかなかった。

で、亡くなったあと、円谷一さんや井川(浩)さんたちと銀座で飲んでたんですね。それが一月末ぐらいかな。何人かで飲みに行って、お互いに気をつけなくちゃ、みたいな話をしてたんですよ。それからすぐですものね、一さんが亡くなったのも。

円谷英二写真集』は大伴さんのほんとうの遺作ですね。お通夜のとき、祭壇に飾ってありましたよ。(上野明雄元・『小学三年生』編集)(1988.1.5) ( 竹内博編「証言構成OHの肖像―大伴昌司とその時代」飛鳥新社)

(年表資料は大伴昌司-Wikipedia金城哲夫-Wikipedia竹内博編「証言構成OHの肖像―大伴昌司とその時代」飛鳥新社山田輝子著「ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方」朝日新聞社上原正三著「金城哲夫―ウルトラマン島唄」筑摩書房の5点。)
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