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素人だから言えることもある

夢は見るものでなく叶えるもの

澤穂希選手の言葉

ワールドカップで優勝したなでしこジャパンが帰国した。会見の中で澤穂希(さわほまれ)選手の言葉が気になった。サッカーキングの「日本が世界の頂点に立った日。苦しみを乗り越え、ドイツに咲いた満開の“なでしこ” 」に澤穂希選手の著書『ほまれ〜なでしこジャパン・エースのあゆみ』に載っていた言葉が引用されていた。
「私の座右の銘を紹介したい。『夢は見るものではなく叶えるもの』。どんな人にだって、夢や目標はあると思う。その目標や夢が、どれだけ大きいか小さいかなんて、関係ない。その人の夢の価値は、他人が決めることではないからだ」

その人がやりたいと思うことをやればいいし、叶えたいと思う夢に向かって突き進むべきだと思う。自分の夢や目標を達成したときは本当に嬉しいし、叶えられたからこそ、また次の夢や目標を持つことができる

「私もいろいろな目標を達成してきたけれど、実現するのは、決して楽な道ではなかった。いろんな思いがあったし、苦しい思いもした。ただ、そういう苦しみを乗り越えたあとは、いいことが待っているし、その達成感は苦しみの何倍にもなって自分にかえってくる。そして、苦しい思いをすると、同時にもっとやれる自分が見えてくる」

何をやるにしても壁はある。壁にぶつかるからこそ、人はがんばれるんだと思う。最初からいいことなんてない。いいことも悪いことも知っているから、人として成長できるんだと思う」(日本が世界の頂点に立った日。苦しみを乗り越え、ドイツに咲いた満開の“なでしこ” )

今回は、これらの言葉から、澤穂希選手の考える夢の論理を考えてみたい。

夢と希望の間

僕は、「夢物語」で、夢の世界についてこう書いている。
「絶対にファンタージェンに行けない人間もいる。いるけれども、そのまま向こうに行きっきりになってしまう人間もいる。それからファンタージェンに行って、またもどってくる者もいくらかいるんだな。きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ」(ミヒャエル・エンデ「はてしない物語 」岩波書店)今回は「夢」と「現実」について考えてみよう。

ファンタージェンは人の夢が集まって出来ている夢の世界だ。ファンタージェンに行くにはさまざまな方法がある。眠りに落ちて夢を見るのももちろんだが、小説を読んだり音楽を聴いたり、映画を見たり、旅に出たり、人に会ったりしてもいい。それをきっかけに、未知に触れ、今まで失っていた何かを手に入れ自分を大きく開くもの、それが「夢」なのである。「夢」は非現実的で、はかなく幻のようなものだと人は考える。だが、現実には「夢」の産物があふれかえっているのである。映画も音楽も演劇も小説も、すべての文化・文明は自らの「夢」を他人に伝えようとした者、言い換えれば、「夢」の世界から戻ってきた者によって作られているからだ。「夢」の中で自分の真実を見出して、新たな自分を作っていく作業、これは一生の大事業である。(夢物語)

今までは夢についてあまりにも小さな世界で夢を考えてきた。一人一人がバラバラな非現実な世界という考え方だ。そうではなくて、夢の世界は現実を超越しており、人々の夢が集まった世界という考え方が必要ではないか。そして、その夢の世界は、私たちに現実を乗り越えるヒントが与えられている。だが、「たかが夢」ということで、夢を信じなくなってくると、自分の夢を実現することは不可能になってくる。

僕は、このエントリーでミヒャエル・エンデはてしない物語 」を道しるべに、夢を信じない人、夢に取り込まれる人、現実に帰ってくる人と3種類に分けた。澤穂希選手は、この夢を現実に持ってくることができた人と考えることができる。また、この「夢」は現実的であることが必要だ。そうなると「夢」から「希望」に変化できるからである。

ところで、「希望」を持つ人には友人や家族に恵まれていることは重要である。希望のない国から希望の国へで、僕は「希望学」(玄田有史編著/中公新書ラクレ)で次の言葉を引用している。

希望があると語る人には、自分には友達が多いという認識を強く持っている場合が多い。友達が少ないと答えた人に比べると、友達が多いと答える人は、希望があると答える確率がおよそ3割高くなっていた。友人という自分にとっての身近な社会の存在が、希望の自負に影響をしている。友達が少ないと自己認識している人は、希望も持ちにくいのだ。

(中略)

もう一つの希望に大きな影響を与える背景は、家族の記憶だ。子どもの頃、自分は家族から期待されていたという記憶がある人ほど、希望を持って生きている人が多くなっていた。親や家族からの進学や就職への期待がプレッシャーとなって、将来に思い悩み、希望を失ってしまうといった事例も多いのではないかといわれたりもする。しかし、データが語る事実は、逆だ。むしろ家族から期待されたという過去の記憶を持っていない人は、未来への希望も見出しにくい状況が起こっている。

(中略)

家族からの愛情の記憶は、希望発見の別のルートを作り出す。家族からの愛情を受けてきた人のなかには、自分には協調性があるという認識を持っている場合が多い。育まれた協調性は、より多くの友だちを持てる個人を創る。そしてその友だちの多さが、希望の発見をもたらすのだ。その意味で、家族から受けた愛情の記憶は、間接的にではあるが、希望につながっている。(玄田有史編著「希望学」中公新書ラクレ)(家族の期待は、子供の人生を変える)

澤穂希選手は、キャプテンとして、チームの信望が高いのは有名である。また、穂希という名前について、
「今になってみると、あの子にあった名前だと思います。違う名前だったら、全然違うイメージになっていたでしょうね」

澤穂希の自著『ほまれ〜なでしこジャパン・エースのあゆみ』の中で、母・満壽子(まいこ)さんは、そう語っている。『穂希』という名前の由来は「その年がお米が不作だったから、お米がいっぱい採れますようにっていう願いを込めて、お父さんが考えたもの」で、子供のころは『ホキちゃん』と呼ばれることも多かったそうだ。

(中略)

そしてもう一つ。家族、スタッフ、チームメイト、友人、サポーターなど、これまで自分が周りの人にいかに恵まれ、支えられてきたかということをあらためて感じることができた。そうした人たちの支えや教えがあったからこそ、乗り越えられたものも多かったはずだ。好きなサッカーを今に至るまで続けられているのも、みんなのおかげ。心から『ありがとう』と言いたい」(いつか世界の頂点に、澤穂希が迎える“豊作”の時「夢は見るものではなく叶えるもの」)

このように家族や友人に恵まれた彼女は、どのような危機に陥っても、冷静な判断を下して壁を乗り越えることができる。
「執筆するにあたり、自分の人生をあらためて、一つひとつ振り返ることになった。もちろん、楽しいこと、嬉しいことはたくさんあった。しかし、同じように悲しいこと、悔しいこともたくさんあったというのを思い出した。でも、自分の人生のために無駄なことはなにひとつなかった。マイナスと思えるようなことも、それをプラスに変えられるように努力をしていけば、自分の人生にとってそれがあって良かったと思えることにつながるのではないだろうか。すべての経験があって、今の自分があるのだから

「日本代表として日の丸を背負って今年で15年目(※現在は18年目)になる。しかし、そこに指定席があると思ったことなんて一度もない。いつも全力を尽くし、どんな試合でも緊張する。何度も世界と戦ってきたが、そのたびに感じるのは“上には上がいる”ということだ。だから私は一度も満足したことがないし、一生満足することなんてないのかもしれない


目の前に壁が立ちはだかっているのは、自分の成長のために大切なことだ。それはこれからも変わらない。いつか世界の頂点に立つ日、その夢の実現までには、まだまだ長い道のりが続くだろう。今はまだ、その通過点だ」(いつか世界の頂点に、澤穂希が迎える“豊作”の時「夢は見るものではなく叶えるもの」)

ワールドカップでも、様々な困難の壁が立ちはだかった。それでも、彼女は夢をかなえる真摯な努力を忘れなかったのである。
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