夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(3)

補足編

萩本欽一(1) 19回のNG
萩本 テレビに出て失敗して、テレビに合わないから来るなって言うんで、テレビ19回止めちゃったことがある。

それで、合わないと思ってテレビに出られなかった。と思ってテレビに出なかった。(欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(1) )

実は、21回という説もある。
向井の手掛ける公開コメディ番組『じんたかパンチ』のコマーシャルに起用される。しかし、ここで緊張したのか気負ったのか、萩本は異例ともいえる21回ものNGを連発し、降板を余儀なくされる。(萩本欽一-Wikipedia)
向井とは、当時のTBSのプロデューサー、向井爽也。(萩本欽一-Wikipedia)

萩本欽一(2)10人のうち一人認めてくればいい
萩本 そうですね。だから、ダメって言われたことをやって、怒られる時もあるけど、ダメはね、それがいいんだよという人が一人いれば、それがテレビの進歩になっていくのね。
10人のうちたった一人、動いて結構という人がいたって、その人に出会うということだもの。いいネタを作れってことじゃなくて、その人を理解してくれる人に会うっていう。(欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(1) )
これは萩本氏の所属していた演出家緑川士朗の言葉。
緑川(士朗)先生 (当時、欽ちゃんが所属していた浅草東洋劇場の演出家) に呼ばれて、「師匠 (池信一・コメディアン/欽ちゃんの師匠) が来たよ。あいつは面白くもないし、才能もないかもしれない。だけど。いまどきあんないい返事をする子はいない。返事だけでここに置いといてくれ、と言われたよ」

おまえのようなダメなやつを、辞めさせてくれるなと言ってくれる人がいると言うことが大事なんだ。応援してくれる人が誰か一人でもいれば、この世界はやっていける。ずっとやってろ」と緑川先生は言ってくれました。 (「知るを楽しむ・人生の歩き方」06年6月7月号/日本放送出版協会) (欽ちゃんの決断(24時間テレビマラソン版))

萩本欽一(3)ニューヨークのピンマイク
萩本 いやいや、使っていない。僕たち、こうやってぶら下げていたんだ、太いのをね。だからさ、ニューヨークに行ったら、ちっちゃいの使ってた。これ(ピンマイク)使ってた。どこの国のもんだって言ったら、馬鹿言うんじゃない、お前んとこのものだ。(欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(1) )
このニューヨークに行った時というのは
ブロードウェイの舞台を見に行ったときに、ピンマイクの存在を知った。その後、テレビの世界に導入した。(大物芸人の伝説雑学・豆知識)
時らしい。

萩本欽一(4) ルービックキューブ

萩本 テレビはね、ルービックキューブ。おもちゃのようで、正解がなかなか出ずらい。触っていれば触っているほど飽きない。でも、最終的に答えがちゃんとあるというのはわかるんだけどなかなか答えに近よらない。(欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(1) )
萩本氏は意外にもルービック・キューブが得意である。
ルービック・キューブが非常に得意で、第一次ルービック・キューブ・ブーム時に、テレビでその技を披露したことがある。自分でキューブの各面に番号を振り、自分で解析してすべて我流で解き方を編み出した。
後に5×5×5のプロフェッサーキューブが発売された時に東貴博からプレゼントされたが、後述するチャリティーマラソンの直前だというのに2週間ほとんど寝ずに同じく各面に番号を振って解き方を編み出した。(萩本欽一-Wikipedia)
加藤茶(1)視聴率50.5%の番組
徳井 全然、そんなんじゃないです。なんとね、50.5%。
加藤 50.5ですか。(欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(2) )
この50.5%の番組は何かと思って調べてみた。Wikipediaによれば、
平均視聴率27.3%、最高視聴率は1973年4月7日放送の50.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区にての数値)。最盛期には40〜50%の視聴率を稼ぎ「お化け番組」「怪物番組」と呼ばれ、土曜8時戦争と呼ばれる視聴率競争にあっても絶対王者として君臨する存在であった。(8時だョ!全員集合-Wikipedia)
とあり、1973年4月7日の番組は、
(第158回:1973年4月7日) 前半コント「嵐を呼ぶリング」
・ゲスト:水前寺清子「昭和放浪記」/欧陽菲菲「恋の十字路」/三善英史「少年記」
・特別ゲスト:輪島功一
・演出:東 修
・会場:文京公会堂(東京)
◆番組最高視聴率50.5%を記録。この回よりアシスタントがゴールデン・ハーフからキャンディーズに交替。
◆ボクシングジムを舞台とした前半コントの特別ゲストに、当時WBCスーパーウェルター級の世界チャンオンであった輪島功一が特別出演。(Ryu's Diary 〜MUSIC・TV・LANDSCAPE〜
加藤茶(2)コント55号の世界は笑うの裏番組
加藤 さっき、欽ちゃん出てましたけど、あの裏番組で欽ちゃんたちがやってたんですよ。「欽ちゃんの世界は笑う」とか「55号の世界は笑う」かな。やってたんですよ。それで、37、8ぐらいとってたんですよ。それで、あの欽ちゃんたちに負けないようにやろうというんで、一生懸命やりだしたんですね。ですから、いいライバルがいたから、やっぱりいいものができたんじゃないかなと思うんですよね。(欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(2) )
これを人は土曜夜8時戦争と呼ぶ。
1969年10月。ある怪物番組が産声を上げた。言わずと知れた「8時だヨ!全員集合」だ。全員集合を放送していたのはTBSだが、そのときフジテレビでは「コント55号の世界は笑う」という番組が30%前後の高視聴率を誇っていた。全員集合のプロデューサー居作昌果に科せられた使命は、コント55号の牙城を切り崩すということであった。居作プロデューサーは当時TBSで人気のあった「サインはV」や「キイハンター」の出演者達を全員集合に出演させるという作戦を取った。この作戦は功を奏し、全員集合は視聴率を取っていく。

いったん軌道に乗った全員集合は、どんどん人気番組に成長していった。加藤茶が「ちょっとだけよ」や「1,2,3,4,やったぜカトチャン」などのギャグを次々と生み出していった。途中加藤茶の交通事故、荒井注から志村けんへの交代などの事件が起きたが、いかりや長介がうまく番組を引っ張っていった。一時フジテレビで萩本欽一気仙沼ちゃんなどを起用して盛り返した時期もあったものの、全員集合は志村けん東村山音頭を流行させて人気を取り戻した。TBSの天下は永久に続くかと思われた。

そのとき日テレは何をしていたのか。シーズン中はナイターを放映していた。シーズンオフはしょせん全員集合の裏番組と言うことでそれほど力を入れていなかったのだろう。日テレが精力を注ぎ込んだのは金曜日だった。当時は週休2日制が定着し始めた時期であり、リラックスした父親を交えて家族揃ってテレビを見るのは金曜日に移行していった。日テレは金曜7時30分から「カックラキン大放送」、8時から「太陽にほえろ!」、9時からドラマ、10時から「うわさのチャンネル」というラインナップを揃えた。この戦略も見事に成功したが、居酒屋の発達とビデオの普及により金曜・土曜の夜にテレビの前に座る人が少なくなってしまい、それほど長くは続かなかった。

磐石に見えたTBSに殴りこみをかけたのはやはりフジテレビだった。81年から「オレたちひょうきん族」が始まったのである。このときひょうきん族横澤彪プロデューサーが取った戦略は伝説となっている。その第一は時間差攻撃だ。


全員集合の最初の生コントは勝負を避け、メインのタケちゃんマンを番組後半に持ってくると言う作戦を取った。この作戦には僕も乗せられてしまった時期がある。その証拠に、小学校6年のときに当時所属していた少年野球の納会で僕は「タケちゃんマンの歌」をみんなの前で歌っている。経緯は覚えていないが、きっと罰ゲームだったに違いない。ちなみに第一回のブラックデビル高田純次であり、明石家さんまは第二回の代役だったのだが、あまりにも面白かったのでそのままさんまがやることになったらしい。

横澤プロデューサーの第2の戦略はグループの解体である。ひょうきん族の中では、コンビを替えてコントをさせたり、ソロで使ったりした。副産物としてうなずきトリオが結成されたのも懐かしい。結果としてビートたけし、島田紳介、島崎俊郎らはソロで活躍することになる。
これらの戦略は大成功し、82年にはひょうきん族の視聴率が全員集合を逆転した。一方で全員集合のマンネリ化は進んでおり、85年9月の第803回をもって幕を閉じることとなる。(土曜夜8時戦争)

僕は、このコント55号→全員集合→ひょうきん族の流れを「禁じ手の戦い」と呼ぼう。相手がやってないこと、相手の禁じ手を狙う作戦である。全員集合のプロデューサー、居作昌果氏はこう書いている。
コント55号に対抗するには、何をすればいいのか。今では、坂上二郎萩本欽一とも個人として活動しているが、この二人のコンビ「コント55号」は、当時のテレビを席巻していた。萩本欽一は、天才的なコメディアンであると同時に、企画力、構成力を持つ“作家”であり、演出家でもあった。この欽ちゃんが思いつくままに投げるあらゆる球種を、ノーサインで、おまけに素手で、平気で受けとめてしまうのが、坂上二郎である。時代の申し子とも言える、強力なコンビだった。テレビをつければ、コント55号が飛び出してくる、という時代である。このコント55号の面白さのベースは、洒脱なアドリブのやりとりであり、ハプニングに対する軽妙な対応にあった。この当時のテレビの笑いは、アドリブ、ハプニング全盛であった。

この時代の流れに逆らうことを、私は考えた。ハプニングとアドリブの「笑い」に対して、時間をかけて徹底的に練りに練り上げた「笑い」を中心とする、バラエティー・ショー番組を作ろうと思った。そして、コント55号に対抗させる主役は、「いかりや長介ザ・ドリフターズ」である。(居作昌果著「8時だョ!全員集合伝説」双葉社)( 今の日本のテレビで「全員集合」が作れない理由)( 巨大なライバルを乗り越えるために役立つ『禁じ手』という手法)
ひょうきん族の三宅恵介ディレクターはこう語っている。
三宅 そう、81年の5月から9月にかけて、まず8本の特番をやったんですよ。「ひょうきん」は裏に「8時だョ!全員集合」っていう素晴らしい番組があったから成立したんであって、番組の作り方で言うと消去法でやったんです。それはなぜかというと、まずは番組の存在価値を認めてほしい、みたいなのがあって、裏にドリフターズの「8時だョ!全員集合」っていうお化け番組があったら、これは普通にやっても太刀打ちできるはずがない。そうすると、番組を認めてもらうためにはどうすればいいか、どうすれば番組の存在価値が出るか、と考えてすべて『8時だョ!全員集合』の逆をやろうと。「全員集合」が生放送だから、こっちはVTRでやろう。「全員集合」はドリフターズというしっかりしたチームがあって、オチに向かってチームプレイをするから、こっちは一人一人のキャラクターを生かした個人プレイでいこう。ドリフが計算された笑いを作るから、こっちは計算できないハプニングを狙おう、っていう。(「三宅デタガリ恵介、バラエティ番組作りに捧げた人生を大いに語る!」(後編)『本人』vol.11太田出版)( ひょうきん族も、「全員集合」を禁じ手にしていた(禁じ手・2) )
加藤茶(3)10分間の停電。
加藤 停電は10分だったんですよ。10分。でも、停電なんだけど、音声が入っているんですね。音声が入っているということは、停電じゃないじゃないですか。ねえ、あれ。停電じゃないとしたら、誰かがなんかやってるんだなと。でもそうか、音が入ってるんだから、なんとかしなきゃならないと懐中(電灯)を持ってきて、今日のゲストは西條秀樹さんでしたーなんつって、そして高木ブーさんでしたーと言ったら、(寝ているポーズ)。(欽ちゃんの笑いから全員集合の笑いへ(NHK「そのとき、みんなテレビを見ていた」第二部より)(2) )
Youtube を見ればわかるとおり、10分でなく、9分半である。さて、停電のいきさつだが、
1984年6月16日、生放送の開始時刻直前(2、3秒前)に、その日の会場ホール(入間市市民会館)が突然停電になるという事態が起きた。

原因は、事前に行われる観覧希望者募集の抽選漏れで入場できなかった者がブレーカーを落としたことによる。停電中は懐中電灯を使用してゲストを紹介した(実際に停電になったのは会場内の照明のみで、テレビカメラやマイクなど放送機材には会場外の中継車から電力が供給されていたため、完全に放送不能となる事態だけは回避された)。

番組冒頭で真っ暗になった会場を映し、「8時だョ!おっ!」の掛け声の後、通常通りタイトルロゴを出した。いったん電気は復旧して、いかりやの「8時だョ!ちょっと遅れたかな?」と掛け声を行った後にまた停電となった。

その時にバックバンドの一部のファンファーレが鳴り、他メンバーはようやくステージに上ることができた。その後、各局ごとのID画像や番組開始の遅れによるテロップを出し、その間やむを得ずスポットライトでステージを照らし、いかりやが「8時9分半だョ!」の掛け声を掛けた後、通常の出演者・スタッフロールを出した。

その後、歌やコントを物凄い速さで行った。停電中、会場内にいた加藤が冗談交じりに「すいません、今日はお休みにします」と言って観客を驚かせたり、ステージ上でいかりやと「15年やっててこんなの初めてだね」と会話をしていた。

エンディング時では会場の電源の不備によるお詫びとテロップを出した。視聴率は通常より10%アップした(26.2%)。後に特番でゲスト出演した加藤がこのハプニングについて今でも忘れられないと語っている。(8時だョ!全員集合の歴史-Wikipedia)


ブログパーツ