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素人だから言えることもある

薬は毒の一部であることを忘れていないか

映画「宇宙戦争」から(ネタバレあり)

録りためていたビデオからスピルバーグの「宇宙戦争」を見た。圧倒的な火星人の猛攻の前に地球人たちはなすすべを知らない。結論として、
彼らを倒したのは人間の武器や策略ではなく、太古に造物主が創造した微生物であった。微生物に対する免疫がない火星人は地球に襲来し、呼吸し、飲食し始めた時から死にゆく運命だったのである。(宇宙戦争(H・G・ウェルズ) -Wikipedia)
100万年以上の人体の歴史は、微生物との戦いの歴史だった。エイズは免疫不全症候群というが、免疫とは微生物に対する抗生物質のことだ。人間は、微生物と戦い、また微生物を体内に取り込みながら進化してきた。これは毒から生まれた薬の歴史に似ている。
「毒は薬なり」というパラケルススが記した記録にあるように、毒の中には薬として応用されているものがたくさんある。今現在でも、様々な薬を開発するために大手の製薬会社は深海からジャングルの奥地までチームを派遣している。例えば、ジャングルの奥地で獲物を麻痺させて捕らえる毒をもつ新種の動物を発見し、その毒の分子の構造が今までとは異なっていた場合、その構造を人工的に少し変化させて副作用が少ない新たな麻酔薬を開発したり、難病を治療する薬などが発見される場合があるからだ。また、新しい「植物」の発見が新薬開発につながることがある。先ほどのアヘンからは麻酔効果のあるモルヒネが含まれ、キニーネ、コカインなどの薬物も植物から発見された成分である。(毒と薬の科学)
しかし、歴史を学習する時は、これらのことを枝葉末節として学ばず、取りこぼしていきがちになる。もし、薬は善、毒は悪というそんな単純な発想であれば、毒の研究は進まず、多くの難病薬は見つからなかったろう。

覚えることは膨大だから、どうしてもグループ分けすることで単純化する。だが、一番重要なことは、取りこぼした枝葉末節にある。

「情報貴族」と「情報難民」

佐々木俊尚氏のツィートから、内田樹氏の論文を知った。
強く同意。新しい格差社会では、質の高い情報を共有できる圏域とそうでない圏域の人たちに二分化されていくと思う。内田さんは政治的に解決せよと書いてるが、これは不可逆的な流れだと思う。/情報リテラシーについて (内田樹) http://j.mp/rkAZt3
(https://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/114843263969665025)
そこで、内田氏の記事を読む。
私が「情報貴族」と呼んだのは、「自分たちが所有している情報についての情報」を集合的なかたちで形成できる集団のことである。
「情報難民」と呼んだのは、原子化されたせいで、自分が所有している情報を吟味する「公共的な言論の場」から切り離されてしまった人々のことである
もちろん、「情報難民」たちもネット上に「広場」のようなものをつくって、そこに情報を集約することはできる。けれども、彼らがそこに集まるのは、「自分に同調する人間がたくさんいることを確認するため」であって、「自分の情報の不正確さや欠落について吟味を請うため」ではない。
情報リテラシー問題は実は「情報の精度」にかかわる知力のレベルの問題ではなく、「情報についての情報を生み出す『集団知』に帰属しているか、していないか」というすぐれて「政治的な問題」なのである。(情報リテラシーについて)
この「情報難民の原子化」とは、
本稿では「情報の階層化」について書いたが、実際に起きているのは、「階層化」というよりはむしろ「原子化」である。
人々は今では個人単位で情報を収集し、「自分が知っている情報の価値、自分が知らない情報の価値」についての中立的なメタ認知能力を失いつつある。(情報リテラシーについて)
このような分裂の原因は、
その「情報平等主義」がいま崩れようとしている。理由の一つはインターネットの出現による「情報のビッグバン」であり、一つは新聞情報の相対的な劣化である。人々はもう「情報のプラットホーム」を共有していない。私はそれを危険なことだと思っている。(情報リテラシーについて)
マスメディアが築いてきた情報平等主義がインターネットによって、「情報貴族」と「情報難民」に二分化されようとしていると、二人は言うのだ。僕は、マスメディアとインターネットメディアの違いとして、
マスメディアはPushメディアだと言われる。テレビにかぎらず、新聞も情報を一方的に流す点では同じた。その時点では、あまり重要でない情報だと思っていても、あるニュースをきっかけに重要になることもある。今回のドナルド・キーン氏来日のニュースと僕のエントリーが結びついたことも同様だろう。
一方、インターネットは、Pullメディアだと言われる。検索にしてもそうだ。調べたいものがない限り、一方的に情報を流してはくれない。多くの場合、このPullメディアも、Pushメディアが引き金になって、検索されることが多い。つまり、PullメディアはPushメディアが存在したからこそ、登場したのである。(テレビと記憶)
Pushメディアが限られたスペース、限られた時間の中で編集されたものに対して、Pullメディアはいくらでも際限なく引き出すことができる。しかもユーザーの趣味嗜好により、いくらでも広げることは自由だ。その点では、「情報難民」と「情報貴族」の出発点は同じだ。なぜ、このような二分化が起こるのか。

内田氏は、「公共的な言論の場」がそこに存在しているかしないかの違いだという。「公共的な言論の場」がない「情報難民」たちが集まる時は、「自分に同調する人間がたくさんいることを確認するため」であって、「自分の情報の不正確さや欠落について吟味を請うため」ではないのであり、当然ながら、彼らは自分の情報と違った意見は攻撃する。

一方、「公共的な言論の場」がある「情報貴族」たちは、お互いに情報を共有することで、情報の間違いを正したり、新たな考えを深めることができる。いわば、「情報難民」たちは、情報を消費するだけで、何ら進歩はしないが、「情報貴族」たちは新たなレベルに進化できるというわけだ。

典型的なのは、原発論争である。9月4日の佐々木氏のツィート。

それにしても放射能関係は一回Tweetしただけで酷い反応が山のように来るな。これで嫌気がさして皆放射能のことはTweetしなくなり、そして放射能のことばかりTweetしてるノイジーマイノリティの声ばかりが大きくなっていく。(https://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/1101795825141719049)
絡まれるのが嫌で放射能について黙ってた人たちも、長い年月が経って事態が収束してから「いや、あの空気は私も変だと思ってたんですよ」と言い出す。戦前戦後の空気の変化と同じことがまた繰り返されていくのかも。(https://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/110179923737583617)
リスクゼロは絶対議論に負けないからね。何反論されたって「でも危険性がゼロじゃないでしょ?」と言い続ければ、絶対に負けない。だから誰にでも参戦できてしまうし、誰もが勝利感覚を味わえるのだ。(https://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/110180904281968641)
リスクゼロ原理主義によって初めて「議論に勝つ」という気持ちよさを味わってる人がたくさん出てきてるんじゃないかと思う。(https://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/110182627973152768)
酷い反応がたくさん返ってくる問題(放射能、グローバリゼーション、格差など)については面倒だから発言しないようにしようかと思ってたんだけど、先日の「当事者性」Twをしてから考えを180度変えた。(https://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/110184681965752320)
ああいう酷い人たちと議論する気はないし、たぶん議論もできないと思う。でも彼らに向けてではなく、そうじゃないサイレントな人たちに向けて「皆負けずに発信しましょうよ」と訴えていく姿勢が大事なんじゃないかと思うようになったのです。(https://twitter.com/#!/sasakitoshinao/status/110184994915364864
佐々木氏の言う「ああいう酷い人たち」とは、内田氏の言う「情報難民」たちのことだ。今回の、原発問題でも、放射能=悪だから、少しでも認めようとする人間を許さない。そこには議論をする余地もないし、初めから議論をするつもりもない。彼らには、「公共的な言論の場」が存在しないからだ。しかし、このような「情報難民」たちと話していては、文明は進歩しない。原発をタブー視していては、電力問題が解決しないからだ。毒を研究しないで、薬は見つけられないように。
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