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素人だから言えることもある

「危ないものに手を触れるな」という論理(「見えないから安心」と「見えたから不安」・2)

「見えないから安心」と「見えたから不安」で考えたのは、情報可視化で見えてきた身近な危険について対応できないために、情報を出す側に不信を起こしている。したがって、情報を出すこと自体に、作為があるのではないかと思い、例えば、放射能の数値の高低差より、いまだ未発達でその計測すらされていない地域に逃げる行為が「見えないから安心」と考えているのではないかと思ったからだ。

これはまた、「危ないものに手を触れるな」という論理にも思える。例えば、原発放射能問題で起こった、福島に対する風評被害、極端にいえば、福島から来た産物には、たとえ安全な数値であろうと、手を触れたくないという意識になる。もちろん、安全基準が二転三転する政府やマスコミ報道の姿勢に対しての信頼性が揺らいでいる部分もある。信頼できないから、そこに近づきたくないと考える。だが、それが正しいのだろうか。

世の中には、すべてがリスクゼロな場所はない。例えば、世界平和度指数というのがある。2010年のランキングを見れば、1.ニュージーランド、2.アイスランド、3.日本、4.オーストリア、5.ノルウェー(世界平和度指数-Wikipedia)とある。確かに平和かもしれないが、日本よりも高位のニュージーランドやアイスランドで最近、地震があったことは覚えているだろう。

これらから考えるべきなのは、リスクはどこにもある、そのリスクを世界規模で考えて分散していこうというものなのではないか。最近、起こっているTPP論争も、それの延長で考えると、参加反対派は、日本はこの「世界規模で考え」るべきテーブルに着くことすら拒否しているように思えてならない。

さて、僕は、「見えるから安心」よりも「見えるから安全」に変えていくべきだと思う。というのは、安心というものは感情の産物だからだ。僕は、「男は理屈で動くが、女は感情で動く」でも、こう書いている。

安心と安全の問題もそれに似ている。安心は、感情の問題である。不安がなぜ不安なのかと言えば、それは不安だからというしかない。一方、安全は理屈だ。基準があり、それ以上は安全だとお上が決定する。だから、1ミリシーベルト以下が安全だということが、20ミリシーベルト以下が安全だということに引き上げられた。これは、理屈の改定である。ところが、感情というのは、そうはいかない。個人の感情は、理屈で変えることはできない。
感情を「安心」に持っていくのには、たいへんな時間と努力がいる。情報を出す側の信頼性も必要だ。対話のテーブルに着いたとき考えるべきなのは、感情で判断する「見えるから安心」ではなくて、きっちりと国民が納得できる基準を作って「見えるから安全」に変えていくべきだ。
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