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素人だから言えることもある

ソーシャルメディアの安心と信頼 (「見えないから安心」と「見えたから不安」・3)

「見えないから安心」と「見えたから不安」でこう書いた。

見えないために、言い換えれば、知らされないために、安心だと思ってきたことが見えてきたためにかえって不安を増幅するという現実が起こったのである。普通は、「見えないから不安」とはいうが、現在起こっているのは「見えたから不安」ということである。

僕は、誰かが、このことを説明していないかと資料を探した。見つけたのは、「日本的ソーシャルメディアの未来」(濱野智史・佐々木博著/ソーシャルメディア・セミナー編/技術評論社)。その中から興味深い発言を抜粋する。

ソサエティとコミュニティ

濱野智史 今でこそ「ソーシャルメディア」という言い方が当たり前になっていますよね。でも、皆さんに思い出してほしいんですけれども、ちょっと前は掲示板とかメーリングリストのことを「ネットコミュニティ」と呼んでいたと思うんですよ。

「ネットコミュニティ」という言葉がメインで使われたのは、だいたい2003〜2004年ぐらいまででしょうか。それが2005年以降、ちょうど「Web2.0」と言われてから以降でしょうか、「ソーシャルメディア」とか「CGM」などというようになってきたという記憶があります。

まあ、ネットの世界というのは日進月歩だから、バズワードじゃありませんが、すぐに言葉が移り変わってしまうわけなんですが、今日はあくまでこの言葉の部分にこだわってみたい。そもそもネットのことを「ソサエティ」とか「コミュニティ」とかいうけれども、果たしてどっちなの? ということを、言葉の定義から捉え直していきたいんです。(p16-17)

<コミュニティ>というのは、具体的な例で言うと地域共同体とか家族共同体とか――これは家庭のことですね――要するに狭くてローカルな範囲の人間集団を指します。

これに対し、<ソサエティ>というのは、具体的なイメージでいえば「都市」なんですね。広範囲の場所に、たくさんの見知らぬ人々が集まっている場所。

あるいは「市場」。ここでは「いちば」と読む方の「市場」でイメージしてもらえばいいと思うんですが、見知らぬ人々が遠くから集まってきて物を売り買いする場所、それが「市場」です。マルクスの有名な言葉に、「市場は共同体と共同体のあいだに発生する」というものがあるのですが、まさにそれです。

あるいは「国民国家」。要するに「日本」とか「アメリカ」といった社会集団。これは普通は<ソサエティ>と呼びます。

次に、「どうやって」その集団が形成されるのかについて比較してみます。
何が一番はっきり違うかというと、<コミュニティ>というのは、普通は自分で選択するものではないんですよ。「家族は自分で作るだろう」という細かいツッコみはあるんですが、基本的にほとんどの人はある地域に生まれ、そこを故郷とし、ある家族に生まれますが、どの地域共同体や家族共同体の中に生まれるかを自由意志で選択することはできない。生まれた瞬間に決まってしまう。人はその条件を引き受けるしかないわけです。これが<コミュニティ>のポイントです。

これに対し<ソサエティ>というのは、「契約的」といいますか、個人の自由意志でどの「社会集団」に入るかを選択できるし、入ったり出たりするのも自由です。これが「社会」ないし<ソサエティ>の特徴です。社会科学系の用語では<ソサエティ>とは別に、「結社」という意味の「アソシエーション」と言ったりもします。

さらに比較していきます。規模的には<コミュニティ>のほうは家族とか地域ですから基本的には小さく、都市や国家といった<ソサエティ>のほうが大きくなります。そしてそれはどんなメンバーで構成されているのかというと、<コミュニティ>は単純・均一で、そんなにバラけた人間がたくさんいるわけではない。これに対して<ソサエティ>のほうは複雑で多様な人が参加しています。

そして両者は、「顔が見えるか/見えないか」という関係性のレベルでも違ってきます。いわゆる「顔が見える関係」なのが<コミュニティ>で、<ソサエティ>は見知らぬ者同士で成り立っている匿名的な関係が基本です。

都市とか市場というのは、だいたいは得体のしれない者が集まっているものです。それども一緒に何かしら作業をしたり、ものを理解したりできるのが<ソサエティ>。


さて、いろいろと比較をしてきたわけなんですが、今日、この後出てくるポイントで重要なのが「時間」です。

<コミュニティ>にとっての時間と、<ソサエティ>にとっての時間というのはそれぞれ違います。ひとことでいうと、<コミュニティ>はタイムスパンが長く、<ソサエティ>は短いというのが特徴なんですね。

例えば「地域」だったら、30年とか100年とか300年の歴史なり伝統があって、それを守っている。家族だって何十年ずっと一緒に暮らすわけですから、長期的に安定した――同期的と表現していますが――、リアルタイムで同じ時間を共有することが多くなる。

<ソサエティ>はその逆で、非常に短期的な関係が中心です。もちろん「俺はずっとこの街に住む」「日本で永住する」という意味では、個人にとってその<ソサエティ>が長期的な時間性を持つということはありますが、ここで問題にしているのは、その集団に参加している成員同士の時間的な関係性です。

都市でも市場でもいいのですが、そこでの基本的な人間同士の関係性というのは、どうしてもたくさんの人がいますから、すごくインスタントでアドホックなものになってしまいます。関係も流動的で、家族共同体や地域共同体のように、ずっと同じメンバーで顔を合わせるということはない。

コンビニは24時間営業していますね。今の社会は、「みんな8時に来て、6時に帰る」というライフスタイルではない。サラリーマンはそうでも、トラックの運転手は夜働いているというように、みんなバラバラの生活をしていて、それに合わせて社会インフラも構成されている。
このように、基本的には「バラバラのタイムラインを持った人たちが集まっている」のが<ソサエティ>だと区別ができます。<コミュニティ>が「同期的」だったのに対して、<ソサエティ>は「非同期」なわけです。(p19-24)

濱野 それでは、ネットというのは<コミュニティ>なのか、<ソサエティ>なのか、果たしてどっちなのか。ここらへんから今日の本題に入っていくんですが、結論を先に言ってしまうと、「そもそも、ネットというのは<コミュニティ>と<ソサエティ>の両方が入り混じっている」ということなんですね。

まず、ネットはいかなる意味で<コミュニティ>と言えるのか。それはまるで昔からの親友や家族のように、時間と場所を共有できてしまうという点にあります。

そもそも<コミュニティ>=共同体というのは、さきほども説明したように、「同じ時間を共有する」ということなんですね。原始共同体をイメージしてもらえばいいと思うんですが、そこでは同じカレンダー(暦)を共有して、ムラの中でイベント(祭り)という体験を共有する。共同体の中で、同じ時間の流れの中で稲作をして、祭りをして収穫を祝う。そこでは、同一のタイムラインの共有ということが<コミュニティ>を特徴づけるわけです。(p31)

これは後ほども説明しますが、今ネット上では、これまでの人類がなしえてこなかったようなレベルで、「同じ時間を共有する」ということをすごく簡単に、手軽なコストでできるようになってきている。

その一方で、ネットは<ソサエティ>=社会としての性質も持っています。いかなる<コミュニティ>において現在的な時間を共有するのか、その選択も検索も帰属も離脱も、いとも簡単にできてしまう。ひとつひとつのコミュニティでは時間を共有することができるんだけども、全体で見ると流動性は高いわけです。

それに、そもそも見知らぬ間柄どうしでも一瞬で時間を共有できてしまうので、いわゆる<コミュニティ>とは違って匿名性も高い。となると、ネットはやはり<ソサエティ>の側に近いんじゃないかという感じもする。

このように、ネットというのは<コミュニティ>のようでもあり、<ソサエティ>のようでもあるという二面性を持っているわけです。<ソサエティ>の側面を持ちつつも、瞬時に<コミュニティ>としての側面も発揮できるし、逆に<コミュニティ>から瞬時に<ソサエティ>の側にも移行できる。それがネットというメディアの特徴になっている。でも、これは矛盾というわけではなくて、むしろネットというメディアが持つ原理的な特徴なんだと僕は思うんですね。(p31-34)

「おじさん」はなぜソーシャルメディアを使えないか

濱野 僕も普段から調査をしていて気になるのは、50代・60代の人たち、中でも「おじさん」がまったくソーシャルメディアを使いこなせていないということ。これってなぜなんだろうと考えるんです。

もちろんキーボードなどへの苦手意識とかもあると思うんですが、理由として一番大きいのは、そもそもソーシャルメディアを使ってコミュニケーションをしなければいけないシチュエーションが彼らにはないんですよ。

「企業」という共同体に最適化されてしまっていて、会社の中でみんなの顔も知っていれば自分の部下も決まっている環境で、「なぜいちいちSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)なんかやるんだよ、あほか」と。

やっぱりSNSが面白いのって、「知り合い以上友達未満」の状態のフレンドがたくさんいて、「へー、この人って実はこういう趣味持ってたのか」みたいな発見があるからじゃないですか。だから、日本だと大学生とか、比較的新しい出会いも多くて恋愛する機会も多い層がSNSにハマる。それはアメリカも同じことで、フェイスブックはもともとマーク・ザッカ―バーグがハーヴァード大学にいたときにつくって、大学生の間で流行ったわけですよね。

これに対して、「社内SNS」みたいなものの滑稽さといったらないじゃないですか。なぜか日本では、ビジネスSNSというと「社内SNS」になってしまう。いかに日本人がネットを<コミュニティ>として捉えているのが典型例だと思いますね。

海外のビジネスSNSといえば、「会社を辞めてもすぐほかの会社に行けるようにプロフィールや履歴書とかを載せておいて、誰でも参照できる」という、リンクドインみたいなものになる。日本が「企業内SNS」だとすれば、海外は「企業間SNS」というか。まさに企業という<コミュニティ>ではなくて、個人こそが主役なんです。これは徹底的に個人主義的で<ソサエティ>の発想なんですよね。

でも、それは日本では絶対にできないわけですよ。「リンクドインに登録しました」なんて言うと、「お前、会社辞める気か」なんて言われてしまう。個人を単位にしたネットワーキング・サービスをやるということ自体が、日本の企業社会ではありえないわけです。50代以上になると、「企業に骨を埋めて」みたいなおっさんにならざるを得ない。

佐々木博 やればやるほどリスクが増えてしまいますからね。

濱野 若い人たちだって「上司が見ている中で、なんでコミュニケーションをしなきゃいけないんだよ」という話になるので、企業内SNSを作っても結局誰もやらない。滑稽ですよ、ほんと。
このように、日本ではある世代から上にソーシャルメディアが普及しない。この状況自体は、日本社会のあり方をきれいに反映していると思うので、社会学的にはすごく面白いわけです。(p89-92)

「安心社会」と「信頼社会」

濱野 山岸俊男さんという社会心理学者の方が、『信頼の構造――こころと社会の進化ゲーム』という本を書かれていて、その中でネットコミュニティのことを考える上ですごく重要な指摘をしています。

今日のムラ社会の話と全く同じなんですけども、山岸さんは90年代にすごく面白い実験をやっています。「一般的信頼」のテストといって、「まったく知らない人と会ったときに、その人を信頼しますか」というものなんですね。これを日本とアメリカ、それぞれの国で実験してみるわけです。

皆さん、どういう結果が出たと思いますか。普通に考えると、「日本社会は集団主義で、アメリカは個人主義」ですから、なんとなく日本のほうが「一般的信頼」が高そうという気がしますよね。個人主義って、何かぎすぎすしている雰囲気がある。性悪説の世界で、みんな信じ合っていないみたいなイメージ。だから「アメリカ人のほうが知らない人を信頼する度合いが低くで、日本人はいつも一緒の集団で仲がいいので、誰でも信頼できる」という結果になるのかな、と思うじゃないですか。ところが実際に調査すると、アメリカ人のほうが一般的信頼の度合いが高いんです。逆に日本のほうが、意外なことに見知らぬ人を信頼しないんです。

これはおかしいと山岸さんは考えたわけです。その結果出てきたのが、「アメリカは信頼社会で、日本は安心社会」というものなんですね。アメリカというのは社会の流動性が高くて、見知らぬ人と会う機会が多い。だから、まず、初めて出会った見知らぬ人であっても、とりあえず相手を信頼しないと何も始まらないわけです。だから、まずは相手を信頼するんだけど、その代わりに契約などでがちがちに固めて、ちょっとでも約束を破ったら信頼しないようにする。こういうふうに、個人ベースで相手を信頼するかどうかを判断していく社会のことを、山岸さんは「信頼社会」と呼んでいます。

これに対して、日本はそうじゃなくて、長期的に同じ関係にいるかどうかが大事なんですね。「マフィア型(やくざ型)信頼」とも言っているんですけれども、要するに盃を交わした間柄は義兄弟、みたいな人間関係ですね。「長期的に付き合って、情がわいていれば裏切らないだろう」というタイプの人の信頼の仕方をする。学校だったら、「同じクラスで一致団結して、仲がいい時間を過ごしました。だからみんな一生の友達です」みたいな感じ。

でも、これは結局人を信頼しているんじゃなくて、場を信頼しているだけなんです。あくまで共同体全体を一括で信頼しているだけであって、アメリカ社会のように、個人をひとりずつ信頼できるかどうかを見ているわけではない。山岸さんはこれを「信頼社会」じゃなくて「安心社会」だと呼んでいます。

よく、「日本は契約社会じゃなくて、なあなあな関係でやっていくことが多い」という話がありますよね。それはまさにこういうことであって、「情がわいたら裏切らないだろうから、がちがちに契約しなくていいよね」といのうが、日本の社会の特徴なんです。これは今日の話のもろもろに当てはまります。

アメリカ社会は信頼のベースが個人単位ですから、例えばツィッターだっら「こいつの発言は気に食わないからフォローしない」とか、とことん個人レベルでコミュニケーションをはかっていくしかない。ブログにしろフェイスブックにしろツィッターにしろ、「個人」という単位がはっきりとしているサービスが適しているわけですね

でも日本はそうならないで、「俺たちずっと2ちゃんねるの住人だからお互い信用できるよね」という方向に、どうしても傾きがちなんです。あるいはツィッターとかフェイスブックを日本人が使うにしても、個人としてそれを使っているかどうかじゃなくて、「ツィッターユーザーはセンスがいいから信頼できる」というように、なぜかそのサービスのことを一つの「共同体」としてみなしてしまうんです。

佐々木 日本人は、より<コミュニティ>に近いほうに戻る。長期的な時間契約ではないけど、「関係を重んじる」とか、そういった意味での原始共同体を引きずってしまっている。情報化によって<コミュニティ>から離れていくはずなのに、逆に原始共同体の方に近づいていっている、ということですよね。

濱野 はい、確かにそうともいえるんですが、ここはちょっと難しいところです。山岸さんもおっしゃっているんですけども、日本社会が「集団主義」なり「安心社会」としての作法をえんえんと引きずってしまうのは、別に「日本人の魂」とか「日本民族の遺伝的特徴」によってそうなっているわけではないんだと山岸さんは言います。そういう「日本特殊論」というのは、かつてもさんざん言われていたんですが、特に根拠はないんです。

山岸さんの考えでは、「たまたま日本は流動性がなくてもやっていけた社会だった」ということなんですね。終身雇用にせよそうです。たまたま安定していて、たまたま流動性が低い社会だったら、長期的な人間関係を築いてそれを信頼するだけでいいんです。でも、たまたま社会のある段階で謎の発展と複雑化を遂げた欧米社会は、信頼型社会に移行してしまった。でも「安心社会」の作法で回るんだったら、それでいいのかもしれない。これは別にどちらが本質的に優れているという話ではなくて、要は機能的な問題に過ぎないというか、うまく社会が回ればそれが一番なんですよ。

ただ山岸さんは、「日本社会もこれからグローバル化の波によって必然的に流動化していくのだとすれば、コミュニティ型の『安心社会』からソサエティ型の『信頼社会』に変わっていく必要があるし、自然とそうなっていくだろう」といった意味合いのこともおっしゃっています。
僕もそれは同感なんです。もう、終身雇用なんて時代ではないし、不可能でしょう。だから、これから日本社会もどんどん流動化していくのであれば、学校制度もガラリと変えて、小学生ぐらいからコミュニティを自由に選択するというか、ソサエティ型の人間関係に慣れていく必要があるだろうし、そちら側に自然と移行していくべきだろうと思うわけです。(p119-124)

冒頭の「見えないから安心」と「見えたから不安」で述べた「安心」の正体は、結局
これは結局人を信頼しているんじゃなくて、場を信頼しているだけなんです。あくまで共同体全体を一括で信頼しているだけであって、アメリカ社会のように、個人をひとりずつ信頼できるかどうかを見ているわけではない
に集約される。よく言う「同じ釜の飯」を食った仲間というのも、決して仲間を信頼していってるわけではなく、「同じ釜の飯」に信頼を置いた言葉だった。大企業が崩壊した後(インターネットは何を破壊し、何を作るか・3)で、佐々木氏が
これからは自分の名前で検索した時に何が上位に上がってくるかまで、きちんとブランディングしなくてはいけないという時代が来ているんです
といったのも、日本流の企業内SNSではなく、アメリカ由来の企業間SNSを指して言った言葉であった。
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