夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

ソーシャルメディアの「透明性」とは何か

前項「フェイスブックとグーグル」で、マーク・ザッカーバーグ氏がこんなことを言っている。

「世界がますます透明な方向へと動いていくことは、次の10年、20年に起きる変革のほとんどを後押しするトレンドになるだろう。」(デビッド・カークパトリック 著/滑川海彦・高橋信夫 翻訳/小林弘人 解説「フェイスブック若き天才の野望」P471/日経BP社)
この「透明な方向」とは何か。「逆パノプティコン社会の到来」(ジョン・キム著/ディスカヴァー携書)を読んでいると、「ウィキリークス」も、透明化を目指していると書いてあった。
ウィキリークス創始者、アサンジュは、時代の異端児として、情報の完全透明化の実現という使命のもと、最先端の技術的知識を縦横に駆使し、国家間の法制度の違いからくる空白を巧みに利用して、専制主義国家のみならず、民主主義国家の政府までをも不安にさせる十分な実績を、たったの数年でつくり上げた。

情報を独占し隠蔽することでつくり上げられた権威に対しては、それが政府であれ、企業であれ、宗教組織であれ、内部告発という倫理的には評価が分かれる手段を通じて、機密を暴き、その権威を崩壊させる。そのプロセスを経ることでのみ、不正はなくなり、社会の透明性と正義が担保される。そして、それをデジタルやインターネットに象徴される情報通信技術が後押しする。

――これがウィキリークスに見られる構図である。

これに対する政府の選択は、2つだ。機密の漏洩を許さないより強固な情報管理体制を構築するか、あるいは、自身の行動を自ら律することで機密自体を減らしていくか。(ジョン・キム著「逆パノプティコン社会の到来」P232-233/ディスカヴァー携書)

また、フェイスブックについては、
一方、フェイスブックに象徴されるソーシャルメディアは、ウィキリークスに比べると、政治的な志向は弱い。しかし、その分、非常に汎用的で有機的で柔軟なメディアだ。すなわち、フェイスブック側としては特定の政治的な意図はもっていないものの、そこに参加する人々の意志によっては、一気に政治的なメディアとして生まれ変わる柔軟性を持っている。(ジョン・キム著「逆パノプティコン社会の到来」P233/ディスカヴァー携書)
今年前半のチュニジアやエジプトなどの革命がフェイスブックを中心としたものであることを考えると、マスメディアが国の壁を超えられないのに対し、ソーシャルメディアが国の壁を簡単に超えていることがわかる。ところで、この本の「逆パノプティコン社会」について、アマゾンの解説によると
パノプティコン」という言葉をご存じだろうか? 日本語では「全展望監視システム」と訳されている。
18世紀、ベンサムによって考案された監獄の設計案だ。
ウィキリークスフェイスブック革命による一連の騒動を見て、著者は、このパノプティコンを思い出したと語る。
ただ、構図は逆だ。牢獄にいて見張られるのが政府や大企業で、看守塔にいるのが市民なのである。

あのジョージ・オーウェルが小説『1984』において危惧していたのは、「ビッグブラザー」としての政府によって、市民の一挙手一投足が監視される未来社会だったが、
ウィキリークスフェイスブックの登場は、政府活動の陰の部分を含めたあらゆる情報を明らかにし、勇気ある市民が声を結集し、命をかけた政治行動を起こすための強力な武器を与えた。

看守塔にいるのは市民であり、監視されるのは政府であるという「逆パノプティコン社会」の到来だ。(「逆パノプティコン社会の到来」内容紹介)

この牢獄の例えを援用すると、リアル社会では、政府は市民を管理する看守の立場であるが、彼らは結局、国という壁の中でしか動けないのであり、市民は牢獄の壁を超越したソーシャルメディア(つまり壁を透明化すること)によって、「逆パノプティコン」を可能にしているということなのではないだろうか。そして、政府の管理体制の崩壊は、世界中の政治不信と混乱を招いている。ただ、ソーシャルメディアが力を持てば持つほど、それ自身が新たな「ビッグブラザー」の誕生にならないとは限らない。それはユーザーに透明性を求めているが、フェイスブックやグーグル、ウィキリークスなどはそれほど透明であるとは思えないからだ。


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