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素人だから言えることもある

朝日新聞は、今、何を考えているか・5(ホームサーバの戦い・第106章)

アサヒコム消滅

1月18日、アサヒコムが朝日新聞デジタルに一本化された。ヘッドラインの見出しをクリックすると、いきなりログインページが出てくる。日経新聞のように、無料登録でいいのかと思って登録しようと思うと、結局クレジット情報が必要な購読契約ページに誘導される。また、他のリンク先から、朝日新聞を訪れても同様だ。結局、
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でシャットアウト。日経新聞は、無料登録者でも、一か月20本まで記事を全部読み切ることができるが、朝日新聞では、それもできない。J・CASTの去年の12月20日版では、
全国紙では、読売新聞と毎日新聞が、ブロック紙では中日新聞がそれぞれ12年春にも電子版の創刊に踏み切るとみられ、今後、無料で読める記事は大きく減少する可能性もある。(朝日新聞「アサヒコム」終了、来年初めに「有料版」に一本化有力)
大西宏氏は、2011年6月のブログで
こういった残念な電子版が登場したことは、インターネット・メディアがどうあるべきかのビジョンや理念もなく、またデジタル化することでどのような新たなメディアとしての価値を実現できるかから発想したのではなく、ただただ世の中がインターネットメディアに移行しつつあり、紙の新聞を売っているだけでは時代に取り残され、なんとか対応しようという動機しかなかったからでしょう。

メディアが文化であるかぎり、デジタル版という新しいメディアには、それにふさわしい思想や文化が必要です。それがないこと、またマーケティングの不在が朝日新聞電子版の残念さの本質だと思います。(朝日新聞電子版が残念なのは「縦書きがない」からではない)

と書かれている。確かに、このままでは、朝日新聞購読者だけの単なるサービスでしかない。また、僕も、朝日新聞は、今、何を考えているか・4(ホームサーバの戦い・第82章) でこう書いている。
朝日新聞は、今までの収益をそのまま維持できると考えているらしい。しかも、その価格の理由が、新聞の販売店の不満を抑えるためというのでは、読者をあまりにバカにしている。

(中略)

前項「なぜ、ロケーションフリーは生産完了になったか」で、思ったのは、ソニーが世界を相手に考えているのに対して、放送局が国内のこと、自分たちの立場の維持しか考えていないという事実だった。もっと言えば、意外に地デジ崩壊は近いかもしれない(ホームサーバの戦い・第77章) で、書いたように、地方民放をどうにかして生き残らせたいと思っている点である。同じように、朝日新聞が考えているのは、新聞販売店の存在である。

地方民放も、新聞販売店も、ユーザーから見れば、必要のないインフラ部分だ。本が電子書籍になれば、印刷・製本がいらなくなるように、テレビもネットで流せば地方民放はいらなくなり、新聞もネットで流せば、新聞販売店も輪転機もいらなくなる。ユーザーは、このインフラがなくなれば、より安く情報が手に入ると信じている。ところが、かえって、その部分を水増ししてユーザーに負担をかけるとすれば、誰もそのようなものはいらないと感じるのは当然である。(朝日新聞は、今、何を考えているか・4(ホームサーバの戦い・第82章) )

新聞社の社長としては、右肩上がりの成長を維持したいと考えている。だが、時代は大きく変わったのである。秋山社長が言った、
紙からデジタルへと舵を切るのでなく、紙もデジタルも、つまり両者の最適な組み合わせを追求していくしかないと考えている。(秋山耿太郎・朝日新聞社社長――デジタル時代でも、創刊時から一貫するお客様第一主義に徹する(3) )(朝日新聞は、今、何を考えているか・3(ホームサーバの戦い・第79章) )
の策略は、過去しか見ていない証拠である。

読者が何を求めているのかを理解していない

朝日新聞は、記者のツィッターを公開した。藤代裕之氏は、ガ島通信で各記者のフォロー数とフォロワー数をまとめている。その中で、藤代氏は、
以前よりジャーナリストは「個」であると色々なところで話をしてきましたが、組織ではなく記者が前に出るのは、プロフェッショナルとしてはあるべき姿だと思います。記者が個人としてソーシャルメディアを利用することによって記者の興味や関心、取材活動や書いた記事が分かり、読者や取材先とのコミュニケーションだけでなく、ジャーナリストを目指す人にとっても記者活動が分かり、目標となる人も見つかり易くなります。(朝日新聞が記者ツイッターの一覧を紹介 「個人」による競争の幕開け)
とツィッターを公開した長所を語っている。確かに、朝日新聞という巨大ブランドの元に、記者の個性は発揮できなかった。ツィッターが、記者個人を知るきっかけになるかもしれない。しかし、僕はこのエピソードを知ると同時に、こんなことを思い出した。ブログ・ジャーナリズムは誕生するかで引用した言葉だ。
米国のウェブログブームの仕掛け人、デーブ・ワイナー氏を取材したことがある。そのときに将来の新聞社の形はどうなると思うのかを聞いてみた。
そのときのインタビュー記事からの抜粋
わたしは新聞社を経営しているわけじゃないので分からないが、もしわたしが経営者なら次のようにします。まず記者全員にウェブログを開設するように命じます。それから読者にもウェブログを開設するように勧めます。エディターに記者と読者のウェブログの両方を読ませ、エディターのウェブログ上で面白いニュースへリンクを張らせるようにします。記者の情報、読者の情報は問いません。重要な方、面白い方の情報にリンクを張るわけです。読者と同じ程度の情報量や分析力さえ持たない記者のウェブログにはリンクが張られなくなる。その記者は廃業です。読者が集めてこれない情報、オリジナルな視点、解説を提供できる記者だけが生き残れるのです。これが読者を巻き込んだ新しいタイプのジャーナリズムの形です。(共同ブログ騒動にみる参加型ジャーナリズムの形)
もちろん、ツィッターとブログは違う。おそらく、秋山社長の発想としては、読者への単なるサービスとしての意味しかないだろう。だが、そこからアリの一穴の可能性もある。ただ、朝日ブランドを意識してツィッターがただの朝日新聞の宣伝になってしまってはもったいない。だから、ワイナー氏のアイデアのように読者と記者を競わせる方向に進むといいのだが。また、JB Pressでこんな記事を読んだ。
川嶋 紙とウェブでは世界観が違いますよね。紙は特集にこだわるけれど、それ以外は割と小さく扱われてしまう。扱いが小さくてページ数が少ないと深みが出ない。ウェブはその点、量の制限がないから強い。
僕が以前から言っているのは、ウェブの世界では過去の記事もしっかり残したいということです。半年前の記事だって読まれるはずだと。
例えば、今日の記事に同様のテーマを扱った何カ月か前の記事をパッケージにして見せるという技術もあるわけです。1号で完結する雑誌とは違い、ネットは過去の記事もうまくパッケージにすることができる。(なぜ「紙」の記者をオンラインで生かせないのか)
この場合は、雑誌の記事だが、ウェブでは、過去の記事でもしっかり検索できる。ところが新聞では、数日たって有料記事として貯蔵され、検索すらできなくなってしまう。僕は、過去の記事ほど無料であるべきだと思っている。インターネットが普及して、ニュースの幅が広がったのは、過去記事が読めるからだ。僕は、このブログ自体を過去記事のスクラップブックとして、過去記事の宝庫としたいとさえ思っている。

ところで、朝日新聞が変わるか、CNET Japanが変わるか、ブログについて考える。でこんな記事を引用した。

新聞協会発行の雑誌『PRESSTIME』は、こんな社説を掲げている。

新聞社の電子版の広告は爆発的に伸びる。だから電子新聞に掲載する情報は出し惜しみするな。サイトに壁を作るな。そんなことをすると、検索エンジン経由でせっかくアクセスしてきた読者に悪い印象を与え、広告集めにマイナスの材料を自ら作ることになる。タダで閲読しているからといって「電子版」の読者を馬鹿にしてはいけない。「紙」「電子」にかかわらず読者は本来利口で熱心で協力的なのだ。コミュニティーのニュースや写真を提供してもらい、電子新聞の内容をもっとコミュニティー密着型にして新規の閲読者を獲得せよ。(「サイバージャーナリズム論」第一章 新聞ビジネス崩壊の予兆/歌川令三著)(コンテンツはコントロールできるか、そしてコンテンツは消耗するか)

確かに理想的な社説だが、アメリカの新聞業界も風前の灯らしい。(「Presstime」が印刷版からWeb版に動いた。)

春には、読売・毎日・中日の各紙のWEB版が有料化するというのだが、果たして、採算が取れるとは思えない。とにかく新聞の春は遠そうである。
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