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素人だから言えることもある

タブレットがテレビになる時

アゴラでこんな記事を読んだ。タイトルは、「思考を放棄した人々、大元隆志さんのフィードから―」著者は村井愛子氏。「ASSIOMA」を主宰される大元隆志さんの記事が気になったという。

ITの潮流の一つにアンビエントな世界というビジョンが語られている。センサーネットワークが全てを検知し、人間が何もしなくても温度調整や、健康管理といたれりつくせりな生活を提供してくれる世界だ。

このような世界になることによって、ITを使えない人もITのメリットを享受出来る。その一方で懸念されているのが「人間が馬鹿になる」という点だ。そんなことは無いだろうと思っていたが、昨今の「思考を放棄し始めた人々」を見ていると、あながちその懸念は間違っていないかもしれないと感じる。

人間が思考を忘れ、機械が思考する。果たしてどちらが人と呼ばれる存在になるのだろうか。これからのITの進化は人を退化させるかもしれない。(思考を放棄した人々、大元隆志さんのフィードから―)

村井氏は、この記事から、星新一の「異変」を思い出し、さらにgoogleに思いをはせる。
最近このお話を、頭の中で繰り返し反芻します。もしかしたらそう遠くない未来、googleの自動運転が可能な自動車が実用化したら、運転免許がいらなくなって世界中の人たちは運転技術を忘れてしまうかもしれません。その時、運転技術を保存したデータを誰かが意図的に削除したらどうなるのでしょうか?

そしてキュレーションに関しても、誰かのパースペクティブを借りるつもりで、そのパースペクティブが思考が停止してしまった自分の思考領域を知らず知らずのうちに侵食しているかもしれません。(思考を放棄した人々、大元隆志さんのフィードから―)

確かに、文明の進化は人間を怠け者にする。この話から、エントリー初期に引用した森岡正博氏の「無痛文明論」を思い出す。
「家畜は環境を快適にコントロールされ、毎日食料を与えられ、ひたすら食べて眠ることをつづけながら生きています。その姿は、空調の効いた快適なオフィスで日々決まりきった仕事をする現代人の姿によく似ています。苦痛を避け、快適に暮らすことを目標に進んできた現代文明は、じつは人間を家畜化するだけなのではないか? 我々は安全と快適を得る代償に、生命の輝きを奪われてしまったのではないか?」(森岡正博著「無痛文明論」トランスビュー社の紹介記事より)( メディアの望んだ世界)
怠け者の人間というと、よくカウチポテトといわれ、ソファーに座ってテレビを見ている姿がイメージされる。
カウチポテト族(カウチポテトぞく)は、ソファー(カウチ)に座り込んだ(寝そべった)まま動かず、主にテレビを見てだらだらと長時間を過ごす人を、「ソファーの上に転がっているジャガイモ」にたとえて揶揄または自嘲した、アメリカでの俗語的表現である。 怠惰で運動不足の上にジャンクフードばかりを食べ、肥満など不健康な生活状態にある、という含意を持つ事が多い。(カウチポテト族-Wikipedia)
つまり、テレビは、怠け者の象徴であった。一方、PCはかつて書斎にあった。その目的はユーザーの思考を助けるためであった。したがって、キーボードを使えない人間には何の役にもたたなかった。

ところが、PCは姿を変え、iPhoneになりiPadになった。これらはテレビのリモコンになったり、テレビそのものになったりした。つまり「ITを使えない人もITのメリットを享受出来る」ことになったのだ。PCがテレビを代用できるようになると、テレビの本来持つ受け身性までが代用されることになる。

〔お題〕教育におけるICT〜子供たちに学びの楽しさを教えているかでこう書いた。

今まで、教師が一方的に教えてきた形をテレビ型としたら、これからは自分でテーマを探して調べていくPC型だと思う。確かに、PCがタブレットになり、キーボードのようなものがついてないから、普通の人でも取り組みやすくなった。だが、その内容が簡単になったわけではない。インターネットで膨大な情報を検索できるようになったけど、それは日頃から検索する習慣のない人間には、いきなり大海に飛び込むようなものだ。
外見が似ていても、テレビとPCはまったく目的が違う。タブレットでできるのはリモコン以上のものだ。だが、使いこなせない人間にとっては、リモコン以上のものにはならない。タブレットをツールとして使うことで、自ら頭を使って学ぶことができるはずだが、タブレットがテレビとなった時、テレビの受け身性を持っているので、そこから抜け出せない人間が増殖する。
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