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素人だから言えることもある

読者は感想を求めていない(映画から何を学ぶか・2)

感想を書かない理由

前項「映画から何を学ぶか」で、僕は感想を書かないと書いた。普通のブロガーは、感想を書いている。読者が、感想を求めているときは、公開中のわずかな時期だ。1800円という映画料金に見合う映画かどうか評判を求めているときである。しかし、それ以外では、そのブログの価値は半減する。僕は、読者が検索で求めているのは、感想ではなく、事実だと思う。

ブログの選別化を考えたとき、そのブログの価値はどこにあるか。それは他のブログと違う読む価値のある事実が書かれているかということなのではないか。僕は、映画の中から、疑問に思ったことを決めて、様々な資料から事実を求めて書く。それが豆知識でも、ただのこぼれ話でもいい。これらの事実か、生活のヒントになり、新たな話題を形づくる。この努力によって、そのブログが映画公開時期が過ぎても読む価値を持つ。

新聞記者のブロガー化?

ブログで書かれたことは無料で読める。その点では、ネットで公開されているマスメディアの新聞と同等である。ところが、今まで無料で読めたものを有料化しようという動きがある。それは、朝日新聞は、今、何を考えているか・5(ホームサーバの戦い・第106章) で取り上げた新聞社の動きである。

TechCrunchの印刷媒体は対話性と参加性がないから死ぬ, 出版はすべてデジタル化しコンテンツは単なる導管になるという記事によれば、このようなネットの新聞の有料化は、

これから沈み行くタイタニック号の上でデッキチェアを並べ替えるようなこと
であるという。

印刷全体が沈みつつある中で、このような有料化は「タイタニック号の上でデッキチェアを並べ替えるようなこと」なのだ。もちろん、新聞記者がコストや時間をかけて記事を書いていることは否定しない。疑問なのは、有料と無料の違いが分かりにくいうえに、読者はわざわざ無料記事で済むことを有料化してまで読みたくないということである。これからは、新聞ブランドで大勢の記者を抱え込むことより、優れた記者を少数でもいいから、より特化した記事で進むしかないだろうと思われる。興味深いのは、この記事で、

とりわけ重要なのが、編集者や寄稿者にブロガーのように仕事をしてもらうことだ。透明性とアクセス性を重視せよ。それが、オーディエンスの信頼と密着性を獲得する道だ。ライターたちを、ソーシャルメディアの不協和音のまっただ中に、突き落としてあげよう。大新聞社大出版社のジャーナリズムを変貌させて、単なる記事を書くことから、フォロワーのオーディエンスを築くことにも意識を向けさせる。自分の作品へのトラフィックを増やすための、責任を持たせることが重要だ。これまでのような、単なる書きっぱなしは厳禁。(印刷媒体は対話性と参加性がないから死ぬ, 出版はすべてデジタル化しコンテンツは単なる導管になる)
と書かれていることだ。いわば、新聞記者をブロガーと対戦させよと言っているのに等しい。これなどは、朝日新聞は、今、何を考えているか・5(ホームサーバの戦い・第106章) で取り上げた
わたしは新聞社を経営しているわけじゃないので分からないが、もしわたしが経営者なら次のようにします。まず記者全員にウェブログを開設するように命じます。それから読者にもウェブログを開設するように勧めます。エディターに記者と読者のウェブログの両方を読ませ、エディターのウェブログ上で面白いニュースへリンクを張らせるようにします。記者の情報、読者の情報は問いません。重要な方、面白い方の情報にリンクを張るわけです。読者と同じ程度の情報量や分析力さえ持たない記者のウェブログにはリンクが張られなくなる。その記者は廃業です。読者が集めてこれない情報、オリジナルな視点、解説を提供できる記者だけが生き残れるのです。これが読者を巻き込んだ新しいタイプのジャーナリズムの形です。(共同ブログ騒動にみる参加型ジャーナリズムの形)
新聞記者はプロだから、ブロガーなんかに負けないに違いないなどと考えている人もいるかもしれない。ところが、新聞社が有料化で壁を作ることで、自らこのチャンスを閉ざしているのではないか。新聞というブランドに取り囲まれて新聞記者がますますひ弱化する方向に向かっているようにも見えてくる。

ともかく、読者は事実を求め、ブロガーはその事実に対応したブログを書き、新聞記者はブロガー化する。これは大変面白い新しいジャーナリズムの形である。これはまた、ジャーナリズムはマスメディアの特権ではないで引用した新井直之氏の言葉、

いま伝えなければならないことを、いま、伝え、いま声をあげなければならないことを、いま、声を上げて言う、ということでありさえすれば、それがただ一回限りの行為であったとしても、それは十分にジャーナリストとしての活動と言い得るであろう。必要なのは、いま、伝えねばならぬこと、いま言わねばならぬことを、勇気を持って一刻も早く広めることだ。したがって、ジャーナリズムの活動は、あらゆる人がなし得る。ただ、その活動を、日々行ない続けるものが、専門的ジャーナリストといわれるだけなのである。 (新井直之「ジャーナリストの任務と役割」p26『マス・メディアの現在』[法学セミナー増刊総合特集シリーズ三五]日本評論社
にも通じる。別に、有料だから、プロのジャーナリスト、無料だから、素人のブロガーというわけではない。どちらも、事実に対する取り組みは同じである。ただ、新聞記者は、新聞社というブランドを背負って、その特権で取材しているにすぎない。ところが、新聞社のブランドが、いつの間にかジャーナリズムと誤解され、新聞社というブランド信仰のために、有料化は仕方がないと考えている人がいるとすれば、そのことのみで新聞記者の品質を切り下げていることになりはしないか。そして、結局は「沈み行くタイタニック号の上でデッキチェアを並べ替える」ことになりかねないのではないかと思うのである。
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