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素人だから言えることもある

進化に翻弄される人たち~「ヒューゴの不思議な発明」と「アーティスト」(ネタバレあり)

ヒューゴは発明などしなかったのに「不思議な発明」とは?

映画「ヒューゴの不思議な発明」と「アーティスト」を最近見た。どちらも、サイレント時代の映画へのオマージュがあふれている。僕は、この「ヒューゴの不思議な発明」を公開終了ぎりぎりに見ている。というのは、「アーティスト」と見比べたいと思ったからだ。今年のアカデミー賞で作品賞を競った映画がこの2本だからである。

しかし、「ヒューゴの不思議な発明」を見て違和感を覚えた。ヒューゴは発明などしないのだ。それだったら、「ヒューゴの不思議な冒険」のほうが似つかわしい。それでも、このタイトルにするのは原作「ユゴーの不思議な発明」があるからである。実は、この映画のタイトル「ヒューゴの不思議な発明」は邦題であり、もともとの映画のタイトルは「Hugo」であった。僕は、まだ原作を読んでいないので、詳しいことは分からないが、それを読んだ人のブログがあった。

すなわち、原作のタイトルが「ユゴーの不思議な発明」とされているのは、その物語が、ユゴーが製作した自身に準えたからくり人形が描き出したイラストに基づいてユーゴが語っているものだからなのですが、映画では、そこのところが抜け落ちてイザベルが語るお話という構成になっているために、タイトルにもかかわらずヒューゴが発明したものなど何も存在しない、という奇妙な事態となっているのです。

勿論、映画製作者の方はソコのところをよくわきまえていて、原題を「Hugo」としているところ、なぜか血迷った配給会社は、原作の邦題をそのまま借りてきて(それも、仏語読みの「ユゴー」を英語読みの「ヒューゴ」に読み替えることまでして)タイトルとしてしまいました。いくら観客動員数を引き上げたいとしても、許されないことではないでしょうか?(映画的・絵画的・音楽的ヒューゴの不思議な発明)

原作の原題は「THE INVENTION OF HUGO CABRET(ユゴー・カブレの発明)」だから、「何か発明するのかしら」と思って読んでいると、話自体はほぼ映画と一緒でして。ユゴー(ヒューゴ)は何も発明しないまま終了…と思いきや! ネタバレしちゃうと、なんと「この本 を書いたのが、ヒューゴが発明した機械人形だった!」ことが分かって終わるんですね。これは愉快なオチだと思ったんですけど、映像化がしづらかったのか、スコセッシ監督はその部分を削ってしまって、それ故、原題を「Hugo」だけにしたワケです。(三角絞めでつかまえてヒューゴの不思議な発明(3D・字幕版)(ネタバレ))

また、この本の訳者の金原瑞人氏のあとがきでは、
いままで、こんな本があっただろうか! 160枚近いイラストのなかに、物語がちりばめられている。

まるで映画のフィルムのコマを並べたような絵が続くかと思うと、街の風景や、大時計の裏側が出てきたり、文章が数ページ続いたかと思うと、また絵が出てきて、今度は数行のページが現れたり……この流れとリズムがとても楽しい。そして、なにより、ストーリーが素晴らしい。(中略) しかし、この本にはこれだけのイラストがなくてはいけない。膨大な量のイラストがあってこその本なのだ。それはもう読者もよくわかっていると思う。そして、最後の最後にまたひとつ、あっとおどろく仕掛けがあって……まったく、ブライアン・セルズニックときたら、やってくれるなあ。(アマゾンユゴーの不思議な発明商品の説明より)

なるほど、この映画は、原作を読んで初めて完結するという事なのだなと思った。ひょっとしたら、このストーリー自体もヒューゴの発明だったのかもしれない。(なお、原作本については図書館に予約中)

確かに、映画と小説は作り方が違うし、読者と観客では受け取る部分が変わる。マーチン・スコセッシ監督はこう言っている。

「映画の観客というのは文学作品を読む時のように、ヒューゴの本心だとか感情を想像する余裕がない。でも、映画では、彼の表情豊かな顔や行動を見られるし、しかも3Dなんだ。ストーリーはある程度、変更する必要があったから、原作から削った要素もある。でも、映像によって、特に3Dにしたおかげで、原作の魅力は存分に生かされていると思う」(「ヒューゴの不思議な発明」プログラム/プロダクション・ノートより)
小説では主人公の本心は分かるが、主人公の顔かたちは分からない。街の描写にしてもそうだ。読者の想像力に任せている。一方、映画では、2時間という限られた時間だが、具体的に映像として見せられる。

サイレントだからできること

一方、「アーティスト」は大変シンプルなモノクロのサイレント映画だ。もっとも、純粋なサイレント映画ではない。音楽も華やかだったし、主役のジャン・デュジャルダンは最後に一言しゃべる。「喜んで」と。つまり、サイレント映画をトーキー時代の現代で楽しもうとした映画だ。ミシェル・アザナヴィシウス監督は、こんなことを言っている。
「脚本を書く前には、サイレント映画を大量に観た。そうすることで、いろんなことに気づいたよ。サイレント映画では、普通の映画でできることのすべてをやることはできない。もっとシンプルでなければいけない。だが、制限があるからこそ、ある意味、自由も生まれる。普通の映画では、リアリティが求められるよね。でも、モノクロでサイレントであれば、最初から観客は、それが映画であり、現実ではないことを、無意識のうちに理解している。最初の段階から、観客は多くのことを容認しているんだ。トーキーの世界では行くことのできない領域に足を踏み入れる、素晴らしいチャンスなんだ」(「アーティスト」プログラム)
セリフがないという制限は、かえってイマジネーションを掻き立てる。これは、冒頭の原作小説と映画の違いにも共通している。ところが、このことを進化の波ととらえると、とんだ悲劇を生む。サイレント映画がトーキーになると大量に解雇された人たちがいた。たとえば、なまりは強いけど、顔がよかった俳優たち、映画館専属の楽団、活動弁士たち。彼らは「老兵は消え去るのみ」と言って、消えていった。映画「ヒューゴの不思議な発明」では、ジョルジュ・メリエスがそうだ。ジョルジュ・メリエスの歴史を探ると
メリエスはストーリーを考え、演出するだけでなく、自ら主役を演じ、さらにはセットの製作までを一人で行なうワンマンの映画作家であった。一人の優れた芸術家ではあったかもしれないが、時代を読むことに関しては劣っていた。メリエスはやがて負債を重ねて、ついには破産してしまう。晩年はモンマルトルの駅の売店で売り子をやっていた(写真下)。メリエスの伝記としては晩年のメリエスと生活した孫娘のマドレーヌ・マルテット=メリエス(1923〜)が執筆した「魔術師メリエス」がある。孫の目から見た身びいきがあるとはいうものの、まるで見てきたかのようなタッチでメリエスの人生を再現し、祖父ゆずりの想像力を感じさせる作品になっている。(20世紀の魔術師〜ジョルジュ・メリエスの魔法映画〜)
メリエスは、戦争が始まると、人々はその圧倒的なリアル感で、メリエスの空想的な映画は見向きもされなくなった。大衆に受け入れられないと知ると、自ら映画製作所を焼き、自分のフィルムを焼き尽くそうとした。「アーティスト」にも同じようなシーンがある。主役のジャン・デュジャルダン演じるサイレント時代の大スター、ジョージ・ヴァレンティンは、新進女優のペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)がトーキー作品でのし上がってくると、絶望し、唯一の財産であるフィルムに火を放つ。メリエスを演じたベン・キングズレーはこう言う。
ヒューゴの不思議な発明」は傷ついた魂を癒やすという物語で、とても美しいアイデアだと思ったんだ。壊れた人形を直し、失われたフィルムを修正する。さらに戦争で足を失った兵士の心を癒やす。そのうえ、ソンムの戦いで兄を失った花屋の女性の魂も癒やす、という。実はみんな第一次世界大戦が残した傷を負っている。メリエスは、第一次世界大戦のせいでキャリアを失い、二人の子供たちは戦争のせいで孤児となった。しかし、エイサ(・バターフィールド)が演じる素晴らしい少年が起こした行動がきっかけで、みんなが癒されていくことになっていくんだ。」(「ヒューゴの不思議な発明」プログラム)
「アーティスト」の物語は1929年から1932年のアメリカであり、「ヒューゴの不思議な発明」は1931年のパリに設定されている。このころは、映画ではサイレントからトーキーへの変革期であり、世界的には第一次世界大戦(1914-1918)後、1929年の世界恐慌を背景としている。

この映画を作った理由

「アーティスト」のミシェル・アザナヴィシウス監督は、10年前からサイレント映画を撮りたいと思っていたという。
「尊敬する伝説的な監督たちが、みなサイレント映画を原点にしていたからね。アルフレッド・ヒッチコックフリッツ・ラングジョン・フォードエルンスト・ルビッチ、F.・W・ムルナウビリー・ワイルダーも……。セリフに頼らず物語を伝える基本的な方法に立ち戻るという経験は、映画作りとしても、監督としてのチャレンジとしても、大きな魅力だったよ」(「アーティスト」プログラム)
一方、「ヒューゴの不思議な発明」のマーチン・スコセッシ監督は少し違う。
1931年のパリを舞台に、リュミエール兄弟ジョルジュ・メリエスといった映画メディア黎明期の偉人たちへのオマージュがちりばめられた本作。博覧強記の映画狂であるスコセッシらしい題材だが、製作の直接的なきっかけとなったのは「自分の娘のために1本くらい撮るのも悪くないんじゃない?」という妻の一言だったという。

「たしかにこの映画では『映画への愛』が重要なテーマとなっているが、私がこの映画を作ろうと思ったのは『映画愛』とか『映画のありがたみ』を伝えるためではなく、単純に娘のために作るということが目的だったんだよ。私の末娘はいまちょうど12歳で、私が69歳。『あとどれくらい家族と一緒に過ごせるのだろうか』ということを考える中で今回の企画に出合ったんだ。原作のメインキャラクターとしてメリエスが登場していたことも大きいかな」(マーティン・スコセッシ監督、ほとばしる映画愛で達した新境地)

確かに、マーチン・スコセッシ作品といえば、「タクシードライバー」「レイジング・ブル」「グッドフェローズ」、そして「ディパーテッド」という暴力作品ばかりだった。だから主役の少年・少女は監督作品をほとんど見ることはできなかった。だから、監督の妻が、自分の娘が見られる作品をというのは当たり前だった。実は、スコセッシ監督は、3歳から喘息を患い、ほかの子どもたちとの接触が制限されていた。
そんな感じで、15,6歳になるまで、ずっと行動が制限されていた。ただ、当時の私は悲しいとは思わなかった。いや、実際には寂しい思いをしたことはあったけれど、なんとか自分なりの方法で楽しもうと考えた。それで、両親が仕事から帰ってくるまでの間、絵を描いたり、映画を作ったりするようになった。毎日、うちの中に誰もいない時間が1時間半あって、その時はこころゆくまで絵を描いたりした。それから、映画を観たりね。そんな過去があったから、この原作を読み始めた時、危険な駅で暮らす孤独な少年にたちまち共感して、ぜひとも先の展開を知りたいと思った。すると、なんと映画の発明に関するストーリーになっていて、ますます引き込まれたんだよ。(「ヒューゴの不思議な発明」プログラム)
マーチン・スコセッシ監督は、純粋に原作にほれ込んで映画化したいと思ったのだ。

いくら時代が進化しても映画の伝える力は変わらない

「アーティスト」の主役ジョージ・ヴァレンティンは最後に、ペピー・ミラーとの共演を果たす。面白いのは、かたくなに拒否してきたしゃべりではなく、タップダンスであることだ。過去の人間として、忘れられることではなく、新しい技術であるトーキーを受け入れたことを意味する。また「ヒューゴの不思議な発明」のジョルジュ・メリエスも映画監督として復活を果たす。孤児となった主人公の少年も、メリエスの養子となる。

思えば、サイレントがトーキーになった時、今まで想像していたものが、少しでも減じただろうか。確かに、最初は幻滅した人もいるかもしれない。だが、新しい技術は、新しい想像力を産む。スピルバーグ監督がこういった言葉を思い出す。

スピルバーグ そうです。「ジョーズ」を製作するうえで、観客は私のパートナーだったのです。「ジョーズ」を社会現象とまで成功させたのは、観客のおかげなのです。観客は完全に私たちと一体化し、私が部分的にしか描かなかったシーンを、自分たちの想像力を駆使して補完してくれたのです。(抜き書き「スピルバーグ創造の秘密」)
小説、サイレント、トーキーと技術は進化しても、観客の想像力が必要なことには変わらない。そこには古いも新しいもない。進化に翻弄されて、あなたは古いとか、新しいとかいうことに何の意味があろうか。果敢に新しい技術に挑戦して、監督の思いを伝えてもいいし、もっとシンプルにサイレントに徹してもいい。そこに観客の想像力を掻き立てるものこそ、優れた映画なのである。
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