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素人だから言えることもある

議論するにも材料が必要だ(テレビは書き起こさなければ情報にならない・2)

前項抜き書き「NHKスペシャル 職場を襲う "新型うつ"」などで書き起こすのに、もう一つの理由がある。それは、議論の材料にしてもらいたいからである。

読書会や新聞の読み比べなら、その本や新聞を持ち寄ればいい。ところが、テレビはあやふやな記憶の印象しかない。もちろん、VTRでもう一度見返すこともできるかもしれない。だが、膨大な情報量の番組をもう一度みんなで、見返す時間も惜しいし、みんなに、あらかじめ自宅で録画せよというのも変だ。内容は、見終わった後で、この言葉は残しておきたかったと思っても、後の祭りである。

さらに、時間がたてば、テレビの印象は変わる。ブログなら、過去にどんな発言があったかを調べることができるし、改めて、新しい情報があった時、比較することができる。論評抜きで、書き起こすのもテレビそのものの発言を未来に残したいと思うからである。僕は、テレビは書き起こさなければ情報にならないでこう書いた。

100万人が見たとしても、100万人がおぼえている部分は、それぞれ違うものなのだ。これほど、情報を流すことにテレビが不向きなのは明らかである。僕が、対談を書き起こすのは、テレビが流している情報を、誰が見ても同じ情報として固定化できるからだ。固定化できれば、これは未来に残すことができる。
[お題]日本人に民主主義は合わないのか~情報共有から始めようでも、
インターネットが登場することで、この情報の取り扱い方が変わっていく。マスコミによって流された情報を消費するだけで過ごしてきた受け手が、その情報を自分なりに蓄積できるようになったのである。一握りのコレクターや研究者に限られたものが、インターネットを持っているすべての人間が共有できるようになったのだ。

だが、現在、インターネット上で流れているのはマスコミの亜流的なサイトが多い。その場その場でマスコミの流した情報を話題にするが、それは次の瞬間、消えている。なぜ、蓄積したデータを過去のデータと比較しないのか。脊髄反射的に、揚げ足を取ったり、攻撃するためにレッテル張りすることではなく、もっと自分の知識として活用しようとしないのか。

また、ほかのブログに書いたコメントでもこう発言している。
僕は「ブログにおいて情報の共有」の必要性を感じています。データベースとしてのブログという意味で、いろんな本から引用するのは、その材料を元に読者に考えてもらいたいからです。しかも、それをベースに、また新たな発想が生まれ、他の人の考えと結びつく。普通だったら、ニュースに関してコメントを出すだけで、話はそこで終わってしまいます。その時話題の、映画やベストセラーの本を話題にしても、その映画を見た人や読んだ読者としか話はかみ合いません。そうなると、いくら情報を発信してもその場限りでおわってしまいます。ブログはそんなものと思ってしまえばその通りですが、それではブロガーの考えは深まらないでしょう。僕が、過去のエントリーを何度も引用するのも、その場限りで終わらせず、いわば蜘蛛の巣状に知識と知識が広がる場所でありたいと思うからです。もし、そのブログに行けば、また新たな発見がある、そんな場所にしたいと思っています。([お題]日本人に民主主義は合わないのか~情報共有から始めよう)
かつて、テレビの情報は消耗品だった。特に、今回の番組のように、ネガティブにとらえられている素材の場合、多くのブログが批判的な主張になるかもしれない。でも、そのもとになった番組はどうなの?、だれが何を発言したの?といわれた場合、その素材を改めてNHKオンデマンドを見てとはいえない。無料で読めるブログで批判され、蓄積されているのに、有料化されてしまうと、視聴者が限定されてしまい、ネガティブな印象のみ蓄積される。

議論というのは、やり取りである。そのもとになった発言が提供されないと、その議論そのものが消耗してしまう。多くのブログが、その場限りに終わっているのは、情報の蓄積が深まっていないことを意味している。
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