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素人だから言えることもある

考えるブログ

ブログを完成品と考えるか、過程を楽しむものと考えるか

オルタナティブブログのアイディアは薄暗い小部屋にある、あるいは「考える」とは何かというブログを読んでいて、僕のブログの作法と同じ部分と違った部分があった。著者の白川克氏によると、3つの段階を経てブログを書くそうだ。1)調べない2)パソコン使わない3)1人になるだという。

白川氏は、おそらく、検索してもそのまま引用しないことが正しいと考えているのだろう。むしろ、検索することで自分のアイデアが揺らぐことを恐れているといっていいのかもしれない。

さらに、2)パソコン使わないでも、

パソコンは考え終わったことを、他人に分かるように整える時に使う道具である。
僕は考えるときは必ず、ノートとペンを使う。(アイディアは薄暗い小部屋にある、あるいは「考える」とは何か)
いわば、パソコンを清書機として使うわけだ。

僕は、1)調べる2)最初からパソコン使う3)1人になるである。

僕は、このブログを様々な記事を引用したスクラップと考えている。もちろん、根本的にはテーマがあるのだが、それは頭の中できっかけだけが浮かんでいる。そしてそのきっかけをワードに書き写し、それを思い付くままにGoogleで検索したり、関連する書物を図書館で探したりして、何日か寝かす。したがって、僕にとって1)調べないは正しくない。僕にとっては、調べる過程こそが楽しいのである。

Google先生は確かに速い。でも思考の補助役としては、話にならないくらい遅い。(アイディアは薄暗い小部屋にある、あるいは「考える」とは何か)
というのは、一面では正しいが、それは直接のキーワード検索に限られる。そこからさらに深く掘りさげて、末端の意外な面とか、関連書物のタイトルとかが出てくれば、それを近くの図書館で借りてくる。そして、僕は過去のエントリーと併せて考える。

このような考え方の違いは何か。

これは、ブロガーと出版物の編集者の違いと読むことができる。たとえば、ブログはスクラップブックで引用した。「私が考える、キュレーターと編集者の7つの違い。」にある、

違いその1
編集者は取材する。キュレーターは収集する。

編集者の基本姿勢は「取材」にあると思います。下調べでわかっていても会いに行く。現場へ行く。ウラを取る。そうなると自ずとその量は限定されるはず。キュレーターが圧倒的なのは、情報ソースの広さ、多量さと思います。RSSやソーシャルメディアを利用して、入手する情報量の担保が存在価値を高める。この点はスタンスの違いとして大きいと思います。(私が考える、キュレーターと編集者の7つの違い。)

違いその5
編集者は「ゆらがない」のが美徳。キュレーターは「ゆらぐ」から面白い。

編集者はあるブランドの元、複数のチェック体制で論調を修正しながら進めるので、発信内容にブレが生じないシステムになっています。論調がブレないことがアイデンティティとなっています。
一方のキュレーターは個人の見識のレベルなので、時々内容がある方向に振れたり、戻ったりしがちです。また、発信内容には私生活のことや全然関係のない趣味のことなどもまじったりします。フォロアーにとっては、それも一つの楽しみであり、セレンディピティの源泉となっています。(私が考える、キュレーターと編集者の7つの違い。)

出版物は、多くの編集者がかかわった、最終完成品である。間違いがあっても、単行本では修正が間に合わないことが多い。一方、ブログは後から修正することも可能である。そのため、ブログは永遠の未完成品にならざるを得ないのかもしれない。

頭の中のこびとさん

さて、白川氏は、こう書いている。
自分のなかに薄暗い小部屋がある。
そこに何か大事なアイディアが入っていることは、薄々分かっている。
でも中にズカズカ土足で入ることは許されていないし、電灯も見当たらない。
しょうがないから、ドアを15cmくらい開けて、必死で覗きこむ。(アイディアは薄暗い小部屋にある、あるいは「考える」とは何か)
これなど、映画「インセプション」の設定を思い出す。

夢の中のミッション「インセプション」考(ネタバレあり) クリストファー・ノーラン監督の言葉を引用した。

本作の前提となるのは、夢は共有できるものであること、そして夢の中にいる間は視覚的、感覚的にもそこはリアルな世界であるということ。そして潜在意識の中では、その人物の秘密を手に入れることも可能である。「この映画の核にあるのは、アイデアは強力なパラサイトでもあるという発想なんだ。いったん浮かんだアイデアは、その人の頭のどこかに必ず残っている。人の夢に侵入して、そのアイデアを盗む能力を身につけられるとしたらどうなるだろうか」(「インセプション」パンフレット・プロダクション・ノート)
この映画の設定が成り立つには、お互いの夢同士で行き来ができる環境が必要である。だが、そこまで考える必要のない個人においてもアイデアは必ず残ることを知っているはずだ。白川氏は、断片的な知識をアイデアにまとめてくれるこびとさんがいるという。
インプットした断片的な知識を、だれが整え、小部屋の中にしまっておいてくれるのだろうか。
それは、自分ではない。こびとさんである。
僕が自分のなかにこびとさんが住んでいるのを知ったのは、プログラマーになって半年くらいした時だ。どうしても分からないバグがあって解明に半日潰した、という時、一番効果的なのは放り出して家に帰って寝ることだった。次の日来てみると、バグがなくなっていたり、あっさり解決方法がわかる。理由は分からないが、経験的にそういうことがとても多くあった。
僕はそれを便宜的に「僕の中のこびとさんが、夜中にバグを調べてくれている」と思うことにした。それ以来、本当に困ったときにはこびとさんに任せることにしている。(アイディアは薄暗い小部屋にある、あるいは「考える」とは何か)
実は、この「こびとさん」の存在について書いたのは、僕のエントリーでは二度目である。1億総キュレーター時代にはセレンディピティが重要になるで、
Aさんは設計の仕事に関与しているのですが、アイデアに行き詰ることがあります。そのようなときに、ふと素晴らしいアイデアが生まれると、これを「小人さんが来てくれた」と表現するのだそうです。ここでいう「小人さん」とは、グリム童話『小人の靴屋』に出てくるあの「小人さん」を指します。(宮永博史著「成功者の絶対法則セレンディピティ」祥伝社)

Aさんはもちろんセレンディピティなる言葉は知らない。しかも、この「小人さん」が来てくれるには条件がある。(1億総キュレーター時代にはセレンディピティが重要になる)

・考え抜かないと現れない
・考え抜いても必ずしも現れない
・とても気まぐれである
・「偽の小人さん」はよく現れる
Aさんは、実際の童話と同じように、「小人さん」は、努力してまじめにやっている人のところにのみ、たまにやってきてくれる気まぐれな人だと解釈しています。そこで、いつでも来てくれるよう準備しておかなければとも思うのでした。(宮永博史著「成功者の絶対法則セレンディピティ」祥伝社)

僕は、このようにブログを書くときはいつも考えながら書く。インプットが多ければ多いほど、様々なアイデアへの選択肢が増えるからである。

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