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素人だから言えることもある

大切な人を亡くすということ

死んで初めてその大切さを知る

 こんなブログを読んだ。末期がんの彼と結婚した女性の話。ブログの作者は、最後にこんな文章を書く。
「愛する人の死を具体的に想像することはとても大事なのではないか」ということです。

これはとても難しい事だし、すごい想像力が必要です。しかも、失ってみるまで、その気持ちを「完全に」理解することはできないでしょう。ただそれでも、想像する努力はすべきだと思っています。なぜかと言うと、人間というものは勝手なもので、失ってみるまでどれだけ相手が大事だったのかなんてわからないことが多いからです。そして、「わかっていたならばあれをしたし、あれをしなければよかった」という後悔は、ほとんど確実にやってくると思います。特に、急な死であればあるほどに。

死は例外なく誰にでも訪れるし、親は当然ながら、子供だっていつ事故で死ぬのかわからないわけで、後悔するとわかっているのであれば、後悔しないように色々と考える必要があると思います。ただし後悔を減らす上での最大の障壁は、前述のように「自分が相手をどれぐらい大事だと思っているのかを想像できない」ことにあると思います。だから、その障壁に対して一番良い方法は、相手がもしいなくなったら自分がどうなるのかを具体的に想像してみる事なんじゃないでしょうか。(Betsyの話)

僕は別に、だから健康に留意せよとか保険に入れというのではない。相手がどれだけ大事な人であるかは、死んで初めて知るケースも多いのではないか。

生きているときは、自分のことで一生懸命

最近、NHK-BSプレミアムでアニメ「十二国記」が一挙に再放送された。たまたま「風の万里 黎明の空」十五章で「大切な人が殺される」というテーマの会話があった。

その十五章のストーリーは、

陽子達は桓魋の部隊が加わった事で州師にも勝る勢力を得た。それでも拓峰の街の人たちが蜂起する気配はなく、静まり返ったままであった。
鈴は、我慢することで自分の不幸を慰めている街の人たちの気持ちと、梨耀に仕えていた時の自分の気持ちが似ていると感じていた。祥瓊もまた同じ気持ちで、二人はこの乱によって二度と呀峰や昇紘のような人物を生み出さないで欲しいという願いが景王に届けばいい、と陽子に話す。(第三十八話 「風の万里 黎明の空」十五章)
陽子も鈴も祥瓊も同じ世代の女の子である。陽子は、王なので男っぽい。その個所を書き起こしてみる
あたし、なんとなく街の人の気分、わかるな。あたしが仕えてた人は、使用人にとてもつらく当たる人だった。今から考えると、少しは文句を言えばよかったって思う。でも、ご機嫌を損ねるのが怖くて、黙って、我慢して。そうしている間に、どんどん怖くなるんだよね。よく考えたら、梨耀様が私を、殺したくなるわけじゃないのに。我慢していないと、もっとひどいことになりそうな。

祥瓊 そんなものかもしれないわね。

我慢していれば、自分はなんて不幸なんだって。自分を慰めていればいい。街の人もきっとそう。大切な人を殺されるまでは、気が付かない。

祥瓊 昇紘に殺されるようなことをした方が悪いなんてね。人間て不幸の競争をしてしまうわね。本当は死んでしまった人が一番かわいそうなのに。誰かを憐れむと負けたような気がしてしまうの。自分が一番かわいそうだって思うの。自分が一番幸せだったと思うことと同じくらい、気持ちがいい事なのかもしれない。それは違うと諭されると、腹が立ってしまうのよね。こんな不幸な私を、この上攻めるのかって。

陽子 ふふふ。みんな同じところにはまり込むんだな。

祥瓊 あなたも。

陽子 人は幸せになることは、簡単なんだけど難しい。そんな気がする。

あのね、生きるってことは、うれしいこと半分、つらいこと半分なんだって。(第三十八話 「風の万里 黎明の空」十五章)

生きているときは、自分は小さな世界に閉じこもり、領主に対して正義を訴えようとしない。自分が我慢すれば丸く収まると考える。そして、領主に反撃して殺されれば、殺された方が悪いとなる。これなどは、いじめっ子の論理と同じだ。いじめられたくないから、いじめっ子に対して、反撃をしない。一方、いじめっ子の方は、どんどんエスカレートする。誰も反撃しないから、それが悪王を作る。

大切な人を亡くした時、人間を悪にも善にも変える

シャーロックとダークナイト・ライジングの奇妙な共通点(ネタバレあり) で、僕は、最後にこう書いた。
この破壊の思想は、大切な人を亡くした時に発想しやすい。バットマンは、ゴッサムシティの住民もまた大切な人だと考え、自らの命を懸けて中性子爆弾を海に運んだ。そして、自分の家屋敷は、孤児院にしている。これは、バットマンが思い描いていた再建の心を子供たちに伝えたいと考えたからである。
大切な人を、その人個人に限定してしまうと、その個人が死ぬと、後を追ったり、自暴自棄になったりする。テロリストの発想は、いとおしい個人の死によって、世の中は全部だめだという発想だ。一方、誰にも大切な人がいるという発想を持つと希望が生まれる。思い出すのは、黒澤明の「生きる」である。ストーリーはこうだ。
市役所で市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民の陳情は市役所や市議会の中でたらいまわしにされるなど、形式主義がはびこっていた。

ある日、体調不良で診察を受けた渡辺は自分が胃癌だと悟り、余命いくばくもないと考える。不意に訪れた死への不安などから、これまでの自分の人生の意味を見失った渡辺は、市役所を無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。そんな中、飲み屋で偶然知り合った小説家の案内でパチンコやダンスホール、ストリップなどを巡る。しかし、一時の放蕩も虚しさだけが残り、事情を知らない家族には白い目で見られるようになる。

その翌日、渡辺は市役所を辞めて玩具工場に転職していようとしていた部下の小田切とよと偶然に行きあう。何度か食事を共にし、一緒に時間を過ごすうちに渡辺は若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分が胃癌であることを渡辺がとよに伝えると、とよは自分が工場でつくっている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」といった。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだできることがある」と気付き、次の日市役所に復帰する。

それから5ヶ月がたち、渡辺は死んだ。渡辺の通夜では、同僚たちが、役所に復帰したあとの渡辺の様子を語り始める。渡辺は復帰後、頭の固い役所の上司らを相手に粘り強く働きかけ、脅迫にも屈せず、ついに住民の要望だった公園を完成させ、雪の降る夜に完成した公園のブランコに揺られて息をひきとったのだった。新公園の周辺に住む住民も焼香に訪れ、渡辺の遺影に泣いて感謝した。いたたまれなくなった助役など上司たちが退出すると、市役所の同僚たちは実は常日頃から感じていた「お役所仕事」への疑問を吐き出し、口々に渡辺の功績を讃え、これまでの自分たちが行ってきたやり方の批判を始めた。

通夜の翌日市役所では、通夜の席で渡辺を讃えていた同僚たちが新しい課長の下、相変わらずの「お役所仕事」を続けている。しかし、渡辺のつくった新しい公園は、子供たちの笑い声で溢れていた。(生きる (映画)-Wikipedia)

田切とよとの出会いは何を意味するか。渡辺は、自分の小さな世界を見直して、限られた自分でも新しい世界を見出すきっかけを作った。相手と自分の関係にこだわるより、周りの人にも自分が考えている世界とまた違った世界があるのだと気付く事なのだ。大切な人は亡くなるかもしれない。でも、その人が本当にしたかったことをご存じだろうか。嵐を避けて閉じこもっても、希望などは生まれない。あらかじめ、その大切な人に、何をしたかったかを聞いてみてもよいかもしれない。
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