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素人だから言えることもある

「愛と欲望のマンガ道」補足情報・2

抜き書き「探検バクモン 愛と欲望のマンガ道」で、登場した素朴な疑問を補足情報として後追い調査する「愛と欲望のマンガ道」補足情報・1に続く2回目。今回のエントリーについては、少年サンデーと少年マガジンの争いについて深く関係している。

横尾忠則少年マガジン表紙

森川 「サンデー」に対抗をずっとしているわけですけど、そのために「マガジン」も新趣向を打ち出して。たとえば表紙のデザインを
なぎら 横尾忠則だ。
田中 えー。
太田 横尾忠則なの!?これ。
なぎら これね4週か5週、続けてやったのよ、横尾さんが。
真ん中に星飛雄馬がいて、モノクロで周りに漢字でちゃんと毛筆で書いてあるのが名作なのよ。
太田 斬新だね!( 抜き書き「探検バクモン 愛と欲望のマンガ道」)
この横尾忠則の表紙について横尾忠則本人はどう証言しているだろうか。
横尾忠則(画家) ぼくは大伴さんには一度もお目にかかったことがないんです。ぼくが表紙に星飛雄馬を使った号で、「横尾忠則の世界」というグラビア特集をやっていただいたわけですが、表紙を開くと巻頭ページが真っ黒という、すごく大胆なものでしたね。

それまでは『少年マガジン』でのお仕事を何気なく見ていただけで、企画構成・大伴昌司というお名前を知っている程度だったんです。それにしても、あのころは表現者が体制に対して大変敏感になっていて、エディターの中にも――まあ、一部のエディターですけれど、そういう敏感な人がいましたね。

だから、大伴さんの『怪獣図鑑』のような仕事にしても、単なるファンタジーとしての怪獣じゃない、何か別のものを見せようとされていたんじゃないかと思います。

『マガジン』の表紙をめくると、あのグラビア・ページがくるわけでしょう。つまり両者は連動しているわけで、大伴さんもおそらく、ぼくの表紙を意識しながら作ってらしたんじゃないでしょうか。

『マガジン』の表紙は、毎号、奇抜なものをやりました。白黒だけの星飛雄馬もそうですが、あとは表紙のド真中にタイトルと同じ大きさの字で値段を書いただけとか、とにかく毎回違ったことをやりたかったわけです。いろいろと問題はあったんですが、それはひとつひとつクリアして、いろんな冒険をやったわけです。で、そうこうするうちに『マガジン』はどんどん部数が伸びて、150万部を突破しちゃったんですね。

それで71年の新年号でしたか、谷岡ヤスジさんの「アサ〜〜」というキャラクターが「オラ〜〜クソしてねろーッ」といっている絵を素材にして、赤と金を使ったものすごい表紙を作ったんですよ。当時は70年安保の直後で、世の中がなんとなく荒れていましたし、その表紙でそういう時代が表現できるような気がしたんです。

ところが、編集長の内田さんが飛んできましてね。「正月早々、“クソしてねろ”は困りますよ」と言うわけです。つまり、これはまるで編集者が読者に“クソしてねろ”と言っているみたいだ、と捉えたわけです。

だから、ぼくは「これは150万読者の声なんですよ。読者が世の中に対して言っているんですよ」と一生懸命説明したんですけど、「やっぱり、これはまずい」と言うんですね。

ぼくも、こんな感じじゃもう仕事はつけられないと思って、そのときに表紙の仕事から降ろさせてもらったわけなんです。

だけど、どんどん面白くなりつつある時期でしたからね。あの事件さえなければ、あるいは今でもやっていたかもしれませんね。 (竹内博編「証言構成 OHの肖像―大伴昌司とその時代」飛鳥新社)

この時の少年マガジンの編集長内田勝氏は、こんな証言をしている。
内田勝(元・「少年マガジン」編集長) 大伴さんとは正式の契約を取り交わしたわけじゃなくて、ただぼくとの人間関係です。でも、41年以降の『マガジン』における位置は、劇画ページを除く事実上の“副編集長”でした。表紙に関しても、“横尾忠則起用”を提案したのは大伴さんなんです

横尾さんが登場したのは実は9号分しかないんですが、有名な、星飛雄馬が走ってくるモノクロの表紙がありましたね。あれは社内で大問題になったんですよ。

ゲラ刷りができた直後に、ぼくは営業部に呼ばれましてね。行くと、営業部の人たちが5,6人、深刻な表情をしてゲラを囲んでいて、席に着くやいなや、年上の先輩社員が妙にやさしい声で、ぼくにこう聞くわけです。

「内田君、この表紙、これからどんな色になるの」

「いえ、このままスミ一色でやります」
ぼくがそう言ったとたん、営業部全体がどよめくんです。

戦後、物資のない時代に、それこそ死ぬほどの思いをして先輩たちは雑誌を作ってきたわけですね。表紙だって四色使いたいのに三色しか使えない。人に言えないそういう苦労のすえ、やっと思う存分カラーを使える豊かな時代になったわけです。総天然色、オールカラーというのは、彼らの長年の夢だったんですよ。

『マガジン』のモノクロの表紙が、まるで先人たちのそれまでの労苦を踏みつけにするように映ったのも無理はないですよね。大げさに言えば、彼らの雑誌つくりの価値観が根底から覆されるような恐怖を抱いたのだと思います。

「内田君、きみがどうしてもモノクロの表紙に固執するなら仕方ない。部数を減らさざるをえないね」
「結構です。減らしてください」
タンカを切って、ぼくは外へ出ちゃったんです。

結果的には、部数は減らされなかったんですけどね。というより、この号はまさに圧倒的な売れ行きだったんです。(竹内博編「証言構成 OHの肖像―大伴昌司とその時代」飛鳥新社)

横尾忠則起用には、大伴昌司という人物が大きく関係していることが分かる。僕は、大伴昌司については、ウルトラ幻想曲大伴昌司と金城哲夫(1)(ウルトラ幻想曲・2)大伴昌司と金城哲夫(2)(ウルトラ幻想曲・3) に書いた。

大伴昌司と手塚治虫

横尾忠則の証言に面白い個所がある。それは、
大伴さんの『怪獣図鑑』のような仕事にしても、単なるファンタジーとしての怪獣じゃない、何か別のものを見せようとされていたんじゃないかと思います。(竹内博編「証言構成 OHの肖像―大伴昌司とその時代」飛鳥新社)
という言葉だ。それと似たような言葉を探検バクモンで、森川嘉一郎氏が「ロストワールド」について言っていた。
森川 動物がしゃべるってことにSF的な理屈を与えてる訳なんです。別に、ミッキーマウスやドナルドダックは脳を改造されたから、しゃべるわけじゃないんで。手塚はアメリカとかヨーロッパではミックスされることのなかったディズニー的なものとSF的なものをミックスすることによって、逆にアメリカにもヨーロッパにもない新しい表現をここに生んでいて、それが日本のマンガやアニメのその後の特徴にもなっていくわけです
太田 みんな憧れて、これでマンガ家になるわけですからね。
NA ファンタジーの世界と科学的なリアリティー。この2つの融合はその後の日本のマンガの大きな潮流となっていった。(抜き書き「探検バクモン 愛と欲望のマンガ道」)
ファンタジーとSFのミックス。ファンタジーは子供のもの、SFは大人のもの。そういう垣根を越えてしまった。これは、現代社会に隆盛している漫画もアニメもゲームも、すべてそうだ。そういえば、ウルトラマンの発想をした金城哲夫と大伴昌司の会話でも、
「神秘性って? 怪獣に神秘性があるんですか」

「そりゃありますよ。確かに凶暴なだけの怪獣もある。だけど凶暴な怪獣だけじゃありませんよ。その土地に棲みついたですね、なんていうか守護神みたいな怪獣だっているわけです。ウーのような。ピグモンだって立派な怪獣ですよ」

「ぼくの考えは違うんです。怪獣はあくまでも怪獣、人類に敵対する存在。でっかくて、凶暴で醜悪で、モンスターですよ、モンスター」

大伴さんはSF作家だから、アメリカ、ヨーロッパの影響が強い。だから怪獣を腑分けできるんですよ

「怪獣を腑分けしたのは、武器とか性能をビジュアルにしたくて、誤解された部分もあるんです」

金城は「怪獣解剖図鑑」を大伴が出版したことに対して激怒した円谷監督の怪獣に対する思いを代弁すると同時に自説を展開して議論になった。(上原正三著「金城哲夫―ウルトラマン島唄」筑摩書房)( 大伴昌司と金城哲夫(2)(ウルトラ幻想曲・3) )

金城哲夫は、怪獣に対して、ファンタジー性を求めたのか。一方で、大伴昌司は、そこにSFをミックスした。手塚治虫のいない「少年マガジン」に登場した大伴昌司は、すでに手塚治虫流のSFミックスを感性として持っていた。

なぜ少年マガジンは、手塚治虫に嫌われたか

週刊少年漫画誌の発想は、「少年サンデー」が早かった。小学館と言えば、「小学○年生」などの学年別月刊誌で有名だが、1958年当時大人向けの週刊誌が続々創刊される中、子供の週刊誌はまだなかった。そこで創刊前の「少年サンデー」では、当時マンガ月刊誌に多くの連載を抱えている手塚治虫を独占契約しようということになった。
だが、手塚の反応は、意外なものだった。

新しい週刊誌の連載、よろこんでお引き受けします。でも、他の連載も続けます。僕はプロだから、いっぺん仕事を引き受けたら、断らないんです

「でも、いま月刊誌だけで7,8本も連載を抱えていらして、物理的に可能ですか?」

大丈夫です。僕には、日本のマンガ界を制覇するという夢があるから、本数が多ければ多いほど嬉しいんですよ

結局、週刊誌は少年サンデーだけに執筆してもらうということで話は決着した。(大野茂著「サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年」光文社新書)

少年マガジン」の講談社が小学館の少年週刊誌創刊の情報を得たのは、翌年1959年の1月下旬だった。サンデーとマガジンは先陣争いでデッドヒートを広げわずか1か月半後の3月17日に同時創刊となった(巻末の発行日はマガジン3月26日、サンデーは4月5日)。

少年サンデーは、次々とトキワ荘グループを落としていった。寺田ヒロオ、藤子不二雄赤塚不二夫…。手塚治虫ならともかく、若手の彼らは、週刊誌一誌で手いっぱいで、とても掛け持ち連載はできない。
一方、マガジンは原作と作画を分離することを考え出した。その第一号が梶原一騎であることは、少年マガジン幻想曲に書いた。

ようやく独占が解除になった1965年、手塚治虫少年マガジンに連載を持つことになったその年に勃発したのがW3事件である。それについては、ウルトラ幻想曲に書いた。

大伴昌司と少年マガジンの出会い


それでは、大伴昌司はなぜ、講談社に入社もせずに、横尾忠則を表紙に採用するくらいの少年マガジンの事実上の“副編集長”となったのか。大伴昌司と金城哲夫(1)(ウルトラ幻想曲・2) からその付近の歴史を繰り返すと、
1963年 大伴昌司(27歳)、『SFマガジン』にインタビュー記事「SFを創る人々」を連載開始。また同年に創設された日本SF作家クラブの二代目事務局長(1965年)として、草創期の日本SF界に関与。またSF映画評論を『SFマガジン』等に発表。
1963年4月12日 円谷英二の私設研究所、円谷特殊技術研究所は、この年、株式会社円谷特技プロダクション(以下円谷プロ)として、正式に発足。目的はテレビへの進出。
大伴昌司は、慶応義塾大在学中から、推理小説やSF小説の世界に明るく、SF作家クラブ協会メンバーとして、円谷プロに出入りしていた。それは、円谷プロがテレビ進出のための企画をSF作家たちと練るためであった。
1963年初頭、円谷プロのテレビ進出第一弾として「WOO」が企画された。放映はフジテレビの予定だった。フジテレビの映画部には次男の皐がおり、皐も円谷プロのテレビ進出に積極的だった。

円谷監督は、築地の割烹「田村」に日本SF作家クラブの先生方を招待した。「田村」は当方が接待に利用していた割烹であった。円谷監督はこれまでにも幾度となくここで日本SF作家クラブとアイディア会議を重ねていた。SF作家たちと和気あいあいに談笑するうちに面白いアイディアが飛び出すことがある。円谷監督はSF作家たちの突拍子もない発想を大事にした。1963年に封切られた特撮映画「マタンゴ」は星新一福島正実の原案であった。(上原正三著「金城哲夫―ウルトラマン島唄」筑摩書房)

このフジテレビの企画が立ち消えになると、今度はTBSに「アンバランス」という名前で売り込む。内容は、アメリカで人気の「トワイライト・ゾーン」の日本版。ところが、
「宇宙もの、異次元もの、怪奇もの、怪獣ものとバラエティに富んでいておもしろいが、視点が定まっていない。こども向けあり、おとな向けあり、スタイルも一定していない。規格を統一する必要がある。」(山田輝子著「ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方」朝日新聞社)
というTBSディレクターの発言で怪獣ものに統一し名前を「ウルトラQ」に変えたが一時ストップ。その頃、大伴昌司が「少年マガジン」の内田編集長に出会っている。
内田勝(元・「少年マガジン」編集長) 大伴さんは39年ごろから『ぼくら』の仕事で、講談社に顔は出していたようです。しかし、セクションが違いますと、なかなか出会う機会はないわけです。ところが、大伴さんはぼくのことをいろんな人から聞いてたみたいで、「内田とはどんな人間か」と興味を抱いて、『マガジン』の編集部にやってきたらしいんです。

初対面でしたけれども、共通の友人がたくさんいましたからね。すぐに打ち解けまして、SFや映画などを肴に雑談をしながら、そうですね、そんな間柄が、二か月ほど続きましたかね。
それがある日、大伴さんがこんな話を始めたんです。

「内田さん、実は円谷プロがですね、『ウルトラQ』というSFのテレビ・シリーズを作ったんですが、TBSでオクラ入りになってるんですよ。でも非常によくできたドラマで、オクラ入りにしとくのはもったいないんですよねえ」

ぼくも興味を持ちまして、すぐにTBSの試写室で見せてもらいました。
そうしたら、これが面白いんですねえ。

それで、40年の秋です、ぼくが編集長になって3か月くらい後に、『ウルトラQ』に出てくる怪獣を『マガジン』の表紙に載せたんです。

それまでは『マガジン』に限らず、少年誌の表紙といえばスポーツ選手とか、とにかく明朗健全なものが普通だった。それがいきなり怪獣の表紙ですからね。まわりから「君が悪い」とずいぶん反対意見も出たことを覚えています。TBSでオクラ入りになったのも同じ理由でしょう。とにかく『ウルトラQ』が初めて世に出たのは、そのときの『マガジン』の表紙なんですよ。
ところが、これがものすごく売れてしまった。
怪獣の表紙一枚で。

そこで、なんとかこれを手掛かりに、もっと大きく誌面展開できないものかと考えましてね。大伴さんとも、ずいぶん相談を重ねました。

実は、昭和30年代の『マガジン』は、戦記物をとりあげて、ゼロ戦とか戦艦大和とか、その強さの秘密を解き明かした断面図ですね、それをメインにした図解特集をかなりやっていたんです。

ある時、
「この方法論を怪獣に応用できないだろうか」
と大伴さんが言い出したんですよ。

メカニズムの図解なら、ぼくにもわかります。しかし、なにせ怪獣でしょう。いったいどんなものができるのか、見当もつきませんでしたね。

そうこうするうちに、大伴さんが下図を作って持ってきました。見てみますと、怪獣がどうやって火を吹くのか、石油を貯蔵する内臓があったり、火打石式の発火装置があったり。
なるほど、と思いましたね。

カネゴンには、ちゃんとコイン・メーターがあったりで、実によくできてるんですね。これはイケるぞと。早速、誌面に怪獣の図解をツルベ打ちで載せたところ、予想以上の大ヒットでした。こちらの評判を見て、TBSも放映を決定しましてね。それからはもう、今では伝説化しているほどの怪獣ブームになるわけですよね。

ですから、言ってみれば、大伴さんの『マガジン』での怪獣図解が、その後えんえんと続く円谷プロのウルトラ・シリーズの幕開け役になったわけなんです。(竹内博編「証言構成 OHの肖像―大伴昌司とその時代」飛鳥新社)

やがて、1971年には、内田編集長は、「ぼくらマガジン」の編集長兼任となり、大伴昌司とのグラビア図解シリーズの終焉を迎える。(大伴昌司は1973年36才で急逝)一方、梶原一騎が繰り出す「あしたのジョー」「巨人の星」も終了し、「少年マガジン」の低迷期を迎えることになった。

時代の転換期には天才が登場するという。そう考えると、手塚治虫・大伴昌司・梶原一騎横尾忠則という、ジャンルを超えた天才たちにかき回された少年週刊誌の黎明期だったといえるかもしれない。
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