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素人だから言えることもある

コレクターじゃないから見えてくること

NHK「探検バクモン」を書き起こした抜き書き「探検バクモン 愛と欲望のマンガ道」では、わずか30分の放送ながら、大変内容の濃いものだった。そのため、4本の後追い調査として「愛と欲望のマンガ道」補足情報をつけたのだが、これもまたどこまで調べてよいのかと思うほど、膨大な資料を読み込んだ。それでも、心に残った米沢氏が言った言葉がある。

NA 米澤が自らに課した掟がある。それは、「すべてを受け入れる」
森川 マンガのコレクターって、例えば手塚さんとか石ノ森さんとかそういう宝石のような作家さんのコレクションを作られている方はいっぱいいらっしゃるんですけれど、米澤さんの場合は、例えば、今、コンビニなど、あるいはマンガの書店などで並んでいるこういう大人の女性向けの雑誌。
なぎら ちょっと、エッチなやつ。
森川 レディースコミックと呼ばれる分野ですね。これは日常的に今は手に入るんですけれど、コレクターがいないんで、
なぎら 残しておかないもんね。
太田 後々貴重になるのが分かっている。
森川 みんな読んでたものなのに、後から読めないということになってしまうのを防ぎたいという危機感を、米澤さんはお持ちで、むしろコレクターがいない種類のマンガを意識的に集められております。
マンガというのはあらゆる文化がそうであるように、玉石混交で、たいていコレクターはその宝石の部分だけを集めたがるんですが、米澤さんは「石がないと宝石も生まれない」という考え方の持ち主で、むしろその、ピラミッドの底辺の部分の厚さが頂点の高さを支えている。底辺こそ大事、ということを考えてたんですね。(抜き書き「探検バクモン 愛と欲望のマンガ道」)
米沢氏の夫人の英子さんは、米沢嘉博記念図書館のごあいさつのページで
 まだ、米沢と知り合う少し前、当時付き合いがあったマンガのコレクターの方々と「古いマンガの資料館があればいいのにね、みんなの本を持ち寄ればできるかも」などとお酒の席か何かで話したことを、この挨拶を書くにあたり思い出しました。後に米沢ともそんな話になったときに、彼は「それは無理だね、みんなコレクターだから」と笑って言っておりました。1970年代中頃の古本の世界はマンガバブルな時代で、「誰々のB6版がいくらで出ていた」とか、「何々の雑誌がまとめていくらで売られている」といった話も飛び交っていたように思います。一方で「いい年してまだマンガ読んでる」と叱られる時代でもあり、そんなマンガに驚くほど高い値段がつくぐらい評価されている! と、私にとってそれは、驚きとともにちょっと嬉しいことでもあったのです。ところが、それに対して、米沢は「ぼくはコレクターじゃないから」と一言。そう、彼にとってはマンガも他の読み物のひとつだったのです。SF、映画、ロック、ポップス、演劇、絵画などなど、何でもございです。それでも、やはりマンガが一番彼の中で親しんだものだと思います。 (米沢嘉博記念図書館 ごあいさつ)
コレクターは自分の好きな本を集めるが、いくらいろんなコレクターが集まっても、結局すべての本が集まるわけじゃない。必ず、読み捨てられる本があり、コレクターが集めていないからそこの部分だけ本が抜け落ちてしまう。いくら有名な本が集まっても無名な本がなければ、それはマンガの資料館とは言えない。それこそ、「石がないと宝石も生まれない」から意識的に無名の本を集めたという。しかし、これほど無茶な話はない。個人で集めるには、あまりにもコストがかかる割に、注目されないために大変地味な作業になる。

しかし、文化とはそういうものなのだろう。ローマに芸術家が多いのは、そこに芸術を目指す若者たちが集まるからだ。すべての若者が優れた芸術家になるわけではなく、宝石になるのはほんの一部であり、石のまま埋もれていった人も多いはずだ。したがって、敷石が多ければ多いほど、優れた宝石が生まれ、それを目指して人々が集まる。したがって、日本のマンガ文化を歴史的資料として扱うためには、無名のマンガ家たちの作品を集めてこそその全容が見えてくると考えたわけなのである。
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