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素人だから言えることもある

山中伸弥氏と伊藤穣一氏の発言の共通点

誰かの真似をしたらイノベーションは起こらない

 2012年のノーベル生理学・医学賞に京都大学山中伸弥教授が受賞した。いろいろな名言が登場した。
 山中教授は午前9時30分すぎ、出勤。記者会見で山中教授は研究生活について「1割バッターでも大成功」と話し、「9回失敗しないと1回の成功はやってこない。日常のストレスが大きく、何十回トライしても失敗ばかりで、泣きたくなる二十数年だった」と振り返った。(日本経済新聞10月9日)

―――イノベーションを生む研究と、そうでない研究の違いはどこにあるのでしょうか。

山中:研究者が、自分の研究が本当に新しいか、誰かのマネになっていないかを、常にチェックしているかどうかにあると思います。大阪市立大学大学院に在籍中、助教授に言われた言葉が印象に残っています。それは、「阿倍野の犬実験をやるな」です。

 日本の研究の多くは、「米国の犬がワンと鳴いたという論文があるが、日本の犬もワンと鳴いた」というもの。さらに、日本の犬がワンと鳴いたという論文を見て、「阿倍野の犬もワンと鳴いた」と書く(編集部注:大阪市立大学医学部は大阪市阿倍野区にある)。

 研究者は油断すると、他人の方法論を真似て、阿倍野の犬のような論文を書いてしまう。こういう研究からは、イノベーションは生まれない。私は、本当に誰もやっていないことだったら、どんな研究でも価値があると思っています。だからこそ、若い研究者には、誰かのマネではないか、繰り返しではないか意識してもらいたい。本当のイノベーションは未知の領域でしか見つからないのですから。(「研究者を“憧れの職業”に」、ノーベル賞山中伸弥・京都大学教授2011年秋のインタビューで語った研究への思い)

この言葉で思い出したのは、伊藤穰一氏の言葉だ。
伊藤 はい。今、我々の世の中というのは、想像できない事とか、準備・プランが、準備ができない。想像できない。あの、予想できないことがしょっちゅう起きている。今の世の中、すごいそうですよね。経済にしても。そうすると、なぜ、想像できないかというと、周辺の視野が狭いんです。みんな。我々の世界というのは、集中してきちっとお利口さんの人間たちが集まって、企画を立てて言われたとおり、ものをこなすというのが、ちゃんとした人、ちゃんとした会社。ちゃんとした人、ちゃんとした企業っていうのは、予想外のものはあっても見えない。新しいイノベーションというのは、突然、こっちからやって来るものとか、ここにじつはチャンスがあるから、会社を変えようとか、それを変えるために、周辺を見るために、何が必要かというと、自分でクリエイティビディて自分で規制している。今のイノベーションには、一番何が必要かというと、クリエイティビティでコネクターとか異文化に何が重要かというと、自分の固まった考え方を壊すために、違う世界につないでいくとだんだんそういうクリエイティビティが出てくる。(抜き書き「“混とん”に飛びこめ!MITメディアラボ所長 伊藤穰一」)

伊藤穣一:望ましくないのは、全部の新聞の見出しを読み、他の人が消費するような内容を消費して、自分をジェネラリストと呼ぶような人です。それでは役にたちません。そういった人は、他の誰もがすでに知っていることを知っているだけであり、おそらくは同じ考えを思いつくだけでしょう。

しかし、なんであれ深く追究すれば、他の人の知らないニュアンスを発見し始めます。そういったニュアンスこそ、ブラックボックスをあけて、「ちょっと待てよ、この方法で考えていていいんだろうか」と問うための助けになるのです。

たとえば、シリコンの結晶以外の材料を使用すれば、コンピューター・チップの反応をまったく違うものにできることはわかっています。しかしわれわれはそのブラックボックスを開けません。なぜなら、現在のチップの製造技術に完全にとらわれているからです。あるいは、細胞研究の専門家と、人工補装具やロボット工学を結びつけて考えたことがあるでしょうか? そういった錬金術のような研究領域が存在するのです。メディアラボを他と違うものにしているのは、相互関連性を重視する精神です。(MITメディアラボ新所長、伊藤穣一氏に聞く)(伊藤穰一氏インタビュー補足情報)

発想の視野が狭いのは、結局、今までの常識や権威に頼り切っているからだ。僕は、「ブログはスクラップブック」で、映画評論家の白井佳夫氏の言葉を引用している。
「展覧会の図録を読んだり、パンフレットの解説・批評を事前に入念に読んだりした後で、絵や音楽や舞台を鑑賞しようとする人が増えています。評論家や解説者の目に従って鑑賞する。文学でも同じで、私の好きな作家、ヘミングウェイの全集を、近ごろは巻末の解説に従って読み始める人が多いと聞いてショックを受けました。」

何の予備知識もなく作品と相対して好き嫌いを自分なりに感じとることが芸術鑑賞のあるべき姿では。評論家の意見に頼っていると、それが習い性となって自分の意見がなくなってしまいかねません。それでは永遠に自分の目で芸術の神髄に触れられるようにならないでしょう」(日経新聞3月7日インタビュー領空侵犯「芸術鑑賞は人に頼るな」)

僕はよくパンフレットの言葉を引用する。それを同じように捉える人がいるかもしれない。だが、そのまま引用するのは、自分の考えに合ったより優れた言葉を使って、表現したいと思うからである。このブログのスクラップのスクラップたるゆえんは、その作者がその時考えた思いと、また別の作者の思いをパッチワークのようにつなげながら僕自身の一つの思考を築き上げることだ。そのままコピーし楽をしたいと思っているわけではない。それだったらリンクすれば済む。

大学の役割は終わったのか

伊藤氏がノーベル賞受賞者福井謙一氏から聞いた言葉、
十代のころ、父親の師匠だったノーベル賞学者の福井謙一氏に「大学が役に立った時代は終わったので行かなくていいよ」と言われたことも、影響している。(「オープンな場」で最先端のネット技術を MITメディアラボ所長に就く伊藤氏に聞く)
が気になった。それでも今回の山中氏のように、京都大学からノーベル賞受賞者が登場しているのだ。山中氏は、大学の現状についてこう言っている。
 山中教授は「iPS細胞による再生医療研究は日本が先端を行く」とする一方、世界中で多くの大学や企業の研究者が参入しており、競争は激化していると現状を分析した。知的財産についても「京大のiPS細胞の基本的な樹立方法は日米欧で成立したが、決して楽観視はできない」と述べ、「大学で生まれた先端技術を実用化するには、知財専門家のほか、高度な実験装置を扱える優秀な技術人材、規制当局との交渉や一般社会への広報活動ができる支援人材確保が欠かせない」と繰り返した。

 ただ、こういった研究支援人材は、京大iPS細胞研究所だけでなく、多くの研究現場で非正規雇用でまかなわれているのが実情だという。同研究所員の約9割が非正規雇用で、人件費は文部科学省などからの研究費でまかなわれているが、期限つきだという。「このままでは日本でいい研究が生まれても国内で開発まで進めない」と述べ、日本の大学発技術の研究には優秀な人材確保のための新たな仕組み作りが必要だと強調した。(京大・山中教授、先端技術実用化へ「支援人材の確保を」)

山中氏が、大阪マラソンに参加して資金集めしたのは有名である。また日経ビジネスでも
―――まず大学の研究者が知財についての知識を持つことが必須だと。

山中知財を意識しておく必要はあります。ただ、知財に関する専門知識を研究者が持つのは不可能に近い。知財の専門家を大学で抱えるべきです。

 良い技術が出てきた時に、実用化まで持っていくには、知財の専門知識があり、厚生労働省などの規制当局と早期から交渉できる人材が必要です。日本の大学の研究者が良い論文を発表しても、事業としての成果は米国企業に取られかねません。

 ただ、ここに問題があります。日本の大学には、プロのサポートスタッフを雇用する枠組みがないのです。大学の採用枠は、「教職員」と「事務員」のみ。1年単位の非正規職員としてしか雇えません。これでは、製薬会社などで好待遇で働いているスタッフを、大学に引き抜くのは困難です。iPS細胞研究所では、幸運にも知財の専門家に入ってもらえましたが、ほかの大学もみな必要としています。

 米国では、博士号を持つ人たちのキャリアとして、こういった専門職が定着しています。研究者としてはドロップアウトしても、別の形で研究に貢献できるのです。日本でも人材を育成していかなければなりません。(「研究者を“憧れの職業”に」、ノーベル賞山中伸弥・京都大学教授2011年秋のインタビューで語った研究への思い)

大学の研究環境が年々厳しくなっていることを訴えた。特に、「研究者としてはドロップアウトしても、別の形で研究に貢献できるのです」という言葉から、伊藤氏の

メディア・ラボの特徴は、我々は英語では、アンチ・ディシプリナリー(専門分野にこだわらない)という言葉を使っているんですけれども、一つの分野にまとまらない人、悪い言い方にすると仲間外れにする、だけど、結局何かやりたいんだけど、どこにもはまらない、だけどメディア・ラボだったらなんとかなるような学生、先生、プロジェクトが全部メディア・ラボに集まっていて、私も、人生、いろんなところでいろんなことをやろうとしたんだけど、自分のやりたいことって、一つの組織にまとまりきらなかった。そして、そういう人たちの集まりなんで、そういうこう、そういう人たちの集まりをちゃんと理解して、自分もそういう人だっていうのがDNAということですね。(抜き書き「“混とん”に飛びこめ!MITメディアラボ所長 伊藤穰一」)

という言葉に共通点が見いだせる。大学や企業の研究者たちは、どうしても専門・ジャンルにとらわれてしまう。そうなると従事している業務以外に目がいかず、イノベーションが起こせない。山中氏の言葉は、日本の大学も自由にジャンルにとらわれずに交流ができたら、もっととんでもないアイデアが生まれたのにという思いがそこに受け取れる。思い出すのは、「ヒラメになる」という言葉だ。
亡くなられた小杉健郎先生は、昔、これをチーム員が「ヒラメになる」と表されました。スタッフが上目遣いでトップの顔色を見るようになってしまう、という意味です。もちろん、それはトップの人柄や能力によるものですが、傾向としてそうなるものです。

専任のスタッフは、そのプロジェクトの組織以外に行き場がありません。大袈裟な言い方をすれば、そこで評価されないとドロップアウトしなければならなくなります。すると、どうしてもそのプロジェクト(組織)に特化されてしまう。言葉を換えれば、同じ考え方、同じ発想をするようになっていくということです。

これは、何か解決すべき問題にぶつかった時、障害になります。解決に向けていろいろなアイデアが欲しいのだけれど、似たような話しか出てこないのですから−。他の縦糸組織や、他のプロジェクトの間で、同種の問題を解決していたとしても、また情報を共有するうえでも、スムーズにいきません。(川口淳一郎著「『はやぶさ』式思考法 日本を復活させる24の提言」飛鳥新社)(映画「はやぶさ」の「失敗は成果だ」という話)

これこそが山中氏の言う「阿倍野の犬のような論文」になるということだ。それを避けるためには、研究に没頭するのではなく、伊藤氏や山中氏のように様々な趣味をもったり、異文化の人との出会いが必要になって来る。

ノーベル賞とセレンディピティ

セレンディピティという言葉は、伊藤氏の発言にも出てきた。
伊藤 そうですね。セレンディピティ(思わぬものを偶然に発見する能力・偶発性)、偶然性の中でも、毎日、定例ミーティングのように規格通り世の中を動かしている人というのは、セレンディピティが起きでも、気が付かなかったりする。いくつか有名なストーリーがあって、一つは、画面に点をつけてそれを見ててください。周辺に色付けると、みんな見えるんだけれども、この点を見てると千円あげますというと、見えなくなっちゃう。

セレンディピティというのは、しょっちゅう起きてるんだけど、それに気が付かないというのが結構重要で、われわれ、集中することがいい事ってみんな思っているけど、集中すると、キノコ狩りの人もそうなんだけど、キノコって探していると見つかんないけど、ふぁっとフォーカスを引くと、パターン認識が起きて、キノコって見える。キノコ狩りとおんなじような感じで、新しいチャンスを探すときというのは一生懸命考えていると、どうやって儲けるんだろうと、一生懸命考えていると、気が付かないんで、そのセレンディピティに気が付くような頭と環境づくりがメディア・ラボの課題なんです。(抜き書き「“混とん”に飛びこめ!MITメディアラボ所長 伊藤穰一」)

僕がこの言葉を知ったのは、2010年のノーベル賞受賞者の言葉だった。
セレンディピティ』思いがけず大きな発見をする能力
偶然に出てくるんじゃなくて、いろんなことに対する興味とか、それを見つけるおおらかな気持ちとか一生懸命頑張るとか、そういう気持ちがあればセレンディピティに接することができる。一生懸命努力することによって幸福の女神が微笑むチャンスがある。(成功と失敗のセレンディピティとニワトリ会議)
伊藤氏の言うように、物事に集中すると見えないが、一歩引いてみると見えてくる。それはちょっとした失敗から偶然に知ることも多い。僕は、このセレンディピティの確率を0.3%だと思っている。
私の経験からいって、何か新しいことや未知な分野に挑戦しようとすると、99.7%は失敗します。そう考えると、物事がうまくいく確率は0.3%。日本に昔から“千三つ”という言葉があって、「何かの賭けをしたとき、うまくゆくのは千に三つぐらいしかない」という手意味で使われてきましたが、私の経験からすると、新たに挑戦したことが成功する確率もまさに“千三つ”です。この成功率の低さに怖じ気づいて、目をつぶり、根拠のない楽観をするのでは失敗学は始まりません。この成功確率の低さを十分に認識し、失敗に真正面から取り組む覚悟を決めなければいけないのです。(畑村洋太郎著「決定版 失敗学の法則」文藝春秋)( 成功と失敗のセレンディピティとニワトリ会議)
山中氏が「9回失敗しないと1回の成功はやってこない。日常のストレスが大きく、何十回トライしても失敗ばかりで、泣きたくなる二十数年だった」という理由もそこにある。
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