夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

ジャーナリズムの「素人発想」と「玄人実行」

調査報道と発表報道

前項「なぜ、日本のマスメディアは裏取りが下手になったか」で、仮説を立てる者と裏取りをする者の分離が誤報を生むという話をした。地道な裏取りをするよりも、派手なスクープをしたい。本来なら、地道な裏取りがあってこそ、スクープが可能なのだが、この両者が分裂したため、裏取りをもとにしたスクープ(調査報道)よりも、リークによるスクープの方に報道が傾いているのだ。この調査報道とは、
あるテーマ、事件に対し、警察・検察や行政官庁、企業側からの情報によるリーク、広報、プレスリリースなどからだけの情報に頼らず(これを中心情報とする報道は発表報道)、取材する側が主体性と継続性を持って様々なソースから情報を積み上げていくことによって新事実を突き止めていこうとするタイプの報道。(調査報道-Wikipedia)
調査報道そのものは、裏取りしたネタを組み立てたものであるため、そこに間違いがあれば、スクープが成り立たない。今回の誤報は、リークによるものであり、そのリークの信頼性は裏取りにかかっていた。だが、裏取りがなされていないことで、マスメディアの裏取り記者が育っていないことを暗示している。それは、スクープ偏重のジャーナリズムのためだ。

ジャーナリズムはマス・メディアの特権ではない(マス消滅元年・6) で引用した新井直之氏の言葉、

新聞記事や放送のニュースの九割までが官庁、団体、企業などの発表もので埋められている状況では、ジャーナリズムは公報化し、個性を失うのも当然である。それはジャーナリズムにおけるジャーナリズム性の喪失だ。発表ものではない、ジャーナリストの手によって掘り出されたニュースが紙面や番組を埋めるようになれば、ジャーナリズムはもっといきいきとし、個性を持つようになるだろう。(新井直之著「ジャーナリズム いま何が問われているか」P73/東洋経済新報社)
にも表れている。9割が発表報道であれば、記者に裏取りをする習慣が失われる。ますます裏取り部分は、下請け編集者などに丸投げされる。

戦争取材のアウトソーシング

同じようなことが戦争取材にも起こっている。山本美香さんの死を取り扱ったジャーナリストの死とジャーナリズムの死でこんな言葉を引用した。
日本のテレビ局は、戦争取材をフリーランスに依存する。山本美香さんはラジオプレスという“組織・団体”所属していた。そしてそのラジオプレスはテレビ局と契約していた。
大手メディアの戦争報道は、フリーランスの人達によって成り立っていたということ。また、フリーランスにならないと、現場には行けないということ。
大手メディアの支局員、特派員は、その近くまでは肉迫したとしても、最前線には行かせない、行かないということ。(“フリージャーナリスト”の死に思う)
正確にはラジオプレスではなくジャパンプレス。これなども、一番危険な場所をフリーに任せることで自分たちの社員を守っている。福島の原発の作業のために非正規社員を募集した東電を思い起こされる。結局、マスメディアも官僚システムの一つに違いないことを。

「素人発想」と「玄人実行」

一方、山中伸弥氏の発想とセレンディピティでは、「素人発想」と「玄人実行」の話をした。地道な玄人的な研究と素人的な発想。これは、ジャーナリズムにも言えるのではないか。例えば、「裏取り」という地道な調査、これは「玄人実行」と言えるのではないだろうか。「裏取り」は地道だが、生半可な素人では到底知りえないノウハウと長年の勘が必要だ。一方、スクープは、プロを驚かすよりも素人を驚かす方が衝撃的だ。しかも、プロを驚かすには専門的知識がいるが、素人を驚かすには専門的知識はいらない。つまり、そこに「素人発想」の本質がある。
「発想は、単純、素直、自由、簡単でなければならない。そんな、素直で自由な発想を邪魔するものの一番は何か。それはなまじっかな知識―――知っていると思う心―――である。」(金出武雄著「素人のように考え、玄人として実行する 問題解決のメタ技術」PHP研究所)
とあるように、専門的な知識を持っていると発想しえないから、スクープを連発する記者はどんどん素人に近くなる。もちろん、そこには「裏取り」という「玄人実行」の部分が必要なのだが、読者にはそんなものは見えない。そして、マスメディアの収入がどんどん削減されていくと、減らされるのは専門的な知識を持っている「裏取り」の記者である。おそらく、「素人発想」のスクープ記者たちは、こう思うのではないだろうか。「裏取り」なんてインターネットで十分だと。こうやって、マスメディアには「素人記者」が増えていくゆえんである。
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