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素人だから言えることもある

橋下ブームと言う相乗的なだれ現象

前項週刊朝日「橋下記事」検証を毎日「WaiWai」検証と比較するに、僕はこう書いた。

「橋下市長の出自に関して、ほかの雑誌がすでに書いていることを理由に問題にはならないだろうと思い込み、自らチェックできませんでした。」という言葉は、他の週刊誌と同様により過激な記事になっても、この程度は許されるだろうという人権感覚の麻痺が起きている。記者たちが、記事をものとして扱っているのではないだろうか。記事の向こうに人間がいるということを忘れているのだ。
今日のYAHOOニュースに、佐々木俊尚氏が事件記者業界の「空気」が生んだ週刊朝日ハシシタ問題という記事に、
新聞・テレビ・雑誌の記者たちで構成されるメディアの業界では、なにか不祥事や事件が起きて政治家や企業、官公庁へのバッシング報道が集中的に開始されると、「何を書いてもかまわない」「いまだからどんどん書いてしまえ」というモードに切り替わる。とくだん過熱で冷静な判断を失っているわけではない。頭は冷静なのだが、過熱するうちに「赤信号みんなで渡れば怖くない」モードになってしまうのだ。

だいぶ以前に社会保険庁のずさん年金記録事件が発覚したとき、知人の週刊誌デスクからこう言われたことがあった。「佐々木さん、社会保険庁のなんかネタないですか。いまなら何書いても大丈夫ですから。どんなささいな話でもフレームアップしちゃうから」。社会保険庁の総バッシングモードに入っている状況なら、過剰報道もその場の空気で許されてしまう、ということなのだ。

というものがあった。この空気とは何か。マスコミの世界ではこのようなヒートアップ現象が何度も起こる。「ジャーナリズム いま何が問われているか」という本では、このような現象は「相乗的なだれ現象」と呼ばれるという。
近年のジャーナリズム報道の顕著な特色の一つに「相乗的なだれ現象」と呼ばれる状態がある。造語者の野崎茂によれば、これは「メディア間の運動、相互影響が極度にたかまり、マス・メディア全体として一種の眩暈状態におちいってしまって、エディターシップの麻痺ないし喪失がおこる、という状態をさす」。私が見るところでは、この現象には次の三つの共通した特色があり、いわば「総ジャーナリズム状況」とでもいうべき状態を呈する。

(1)ある事件にすべてのマス・メディアが動員され、

(2)その事件に紙面・番組をできるだけ割き、

(3)その報道の姿勢がすべて同じ。

近年の大きな事件をふりかえってみると、すべてこの三つの特色が現れていることに気がつくだろう。事件が発生すると、新聞・ラジオ・テレビ・週刊誌・月刊誌を問わずすべてのメディアが総がかりで取材にあたり、活字メディアは紙面を大々的に割き、放送は特別番組を組み、そしてその報道内容がどれも似たり寄ったりだったりするはずである。

こういうと、すぐに反論が起こるかもしれない。大事件ならば、すべてのメディアが総がかりで取材にあたり、紙面・番組で大きく扱うのは当然ではないか、と。しかし、私は大事件だから総ジャーナリズム状況になったのだとは思わない。総ジャーナリズム状況のゆえに、われわれ読者、視聴者は大事件だと思ってしまうのだ。(新井直之著「ジャーナリズム いま何が問われているか」東洋経済新報社)( ジャーナリズムはマス・メディアの特権ではない(マス消滅元年・6) )

今回は、週刊朝日が先走ってしまったが、思えば、もともとこの一年は、橋下大阪市長が、大阪から全国に維新の風を吹かせ始めたことからだった。民主党への国民のがっかり感が、新しい動きを求め始めた。そうなると、橋下記事を持ち上げる記事もあればけなす記事もある。この一年の週刊誌の目次を見れば、橋下の名前が消えたことはない。いわば、橋下氏をメインとしたブームが起きているのである。橋下氏としては、このタイミングを逃してしまえば、国政にタッチできるチャンスはないと踏んだのだろう。ともかく、この「橋下ブームと言う相乗的なだれ現象」は、年末に行われるといわれる解散でピークを迎えることになる。
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