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素人だから言えることもある

なぜ、サーバー(奉仕者)は『生産の喜び』を感じないのか

年末には、著名人の訃報が報道されるのが恒例だが

年末近くになると、今年亡くなった有名人の名がワイドショーなどで振り返られる。最近だと、92歳で亡くなった森光子、58歳で亡くなった中村勘三郎、83歳で亡くなった小沢昭一。彼らを知っているのは、テレビや舞台で活躍した映像が残っているからだ。つまり、作品としていつでも彼らを振り返ることができる。無名な人はこうはいかない。せいぜいアルバムで見返すことしかない。近親者がなくなれば、その思い出も消えてしまう。もちろん、子供をつくって残すかもしれない。それだって、2代・3代までの記憶だ。小説家だったら、作品が残る。だが読者である私たちは何を残せるか。

ネット時代の2極化と無駄の重要さで、トーマス・フリードマンのこんな言葉を引用した。

 「今後の世界は2種類の労働者しかいなくなる。クリエーターとサーバー(奉仕者)だ」。(2つのサーバー 生まれる雇用、消える職)
クリエイターは作品を作り、私たち視聴者はその作品を見る。その作品のアイデアを作るのがクリエイターの仕事だが、その作品を製造するために大勢のサーバー(奉仕者)が必要だ。たとえば一冊の本を作るとき、作家は一人でも、それを校正し、編集し、印刷し、出版する。本屋には店員が必要だし、本屋への運送業者も必要だ。このように、一冊の本の周りには、大勢のサーバー(奉仕者)が取り囲んでいる。そのシステムがあらゆる業種にわたって存在している。農家には、生産者(クリエイター)がおり、町のスーパーに届くのにさまざまなサーバー(奉仕者)の手を通じて私たちの手に届く。消費者である私たちは、ほとんどが何かの業種のサーバー(奉仕者)の一人である。これらのサーバー(奉仕者)は顔も知らず代替可能だが、人気のクリエイターは代替不可能だ。

消費者が生産者である時

これを生産者と消費者との関係でとらえてみると、その消費者は、クリエイターでない限り、何かの業種の生産者の一部であるということになる。何かの生産に従事することで、私たちは収入を得ているからだ。また、クリエイターであっても、当然、消費しなければならないので、純粋消費者というのは存在できず、また純粋クリエイターというのも存在できない。つまり、圧倒的に多いサーバー(奉仕者)と一握りのクリエイターは消費者であり、同時に生産者である。これを覚えておいて、次の文章を考えてみよう。

佐々木俊尚氏のツィートでこんなのがあった。

今の時代の不安は「消費ができなくなるか」という恐怖。しかしなぜ「生産できなくなるのでは」という恐怖が出てこないのかという指摘。ここに何かのカギがあるような気がする。/消費者が終わり、生産者がはじまる。NED-WLT http://bit.ly/RUg1GT

(https://twitter.com/sasakitoshinao/status/278275086098771970)

そこで、消費者が終わり、生産者がはじまる。を読んでみる。
本質的には、僕たちはなにかを生産するからこそ、その対価を得ることができるわけです。そしてその対価があればこそ、なにかを消費するということも可能になるのでしょう。ですから「消費ができなくなるのではないか」という恐怖は、そのルーツをたどれば「生産できなくなるのではないか」という恐怖に行きつくはずなのです。でも、そうなっていない。

なるほど、現代社会はモノあまりというわけで、なにかを生産することの価値が急激に下がっていると考えることも可能です。また、そもそも食料を中心として、消費さえできれば生命維持もできると言えばできます。しかしどうも、本質はそこにはないような気がします。


僕は今、現代人を不安にし、現代人から成長を奪っているのは「より優れたものを消費できることのほうが、より優れたものを生産できることよりも素晴らしい」という、近代のマーケティングによって作られた価値観ではないかと考えています。(消費者が終わり、生産者がはじまる。)

この文章では、『消費は美徳』への疑問が提示されている。金持ちは、より高価なものを買える収入がある。高級品を身に着け、高級家具に取り巻かれた生活への根本的な疑問がある。今までの日本の家電の高級志向が、アジアの家電品に見られる「そんなにオーバースペックである必要はない」と自分たちへの消費を否定されたことで急速に売れ行きが落ちたことを意味している。僕は、さらに自分が生産者でありながら、消費者の面を意識せざるを得ないのは、冒頭のクリエイターとサーバー(奉仕者)の関係が影響していると思う。つまり、そこには自分がサーバー(奉仕者)の一人にすぎないという、クリエイターへの羨望があるのではないだろうか。そして、サーバー(奉仕者)の一人であるからこそ、クリエイターほど『生産の喜び』を信じることができないのだと思う。
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