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素人だから言えることもある

子供と大人の間には(異文化文献録)

 子供と大人の違いは、どこにあるのだろうか。「成人式」を過ぎても親に養われる者もいれば、 15 歳で立派に一人で働いている者もいる。すると、子供と大人の違いとは、生活力の差なのであろうか。子供はどのようにして大人になっていくのだろう。今回は、親の役割を通して子供の成長の意味について考えてみた。

 子どもはかわいい。この「かわいい」の語源は「顔映ゆし」で「顔が火照るほどかわいそうで見ていられない」という意味だ ( 「 広辞苑 」 ) 。この底に、頼りなげで未熟で守ってあげたいほど「かわいそう」だから「かわいい」という子供に対する母親の愛情がある。十分な愛情を受けた子供は、母親から「思いやり」の大切さを学ぶ反面、「甘え」の関係を生む。

 「甘え」は相手の好意にすがることであり、本人の力よりも人間関係が重視される(土居健郎「 甘えの構造 」弘文堂 ) 。日本人が学歴・家柄・コネ・会社 などで自分の能力を評価してもらおうとするのは、相手の好意を当てにした「甘え」であり、結局自分の能力に自信がないためだ。従って子供は「よい会社」に入るために「よい大学」に入り、「よい大学」に入るためには「よい高校」に入ろうと努力する。親や教師に従順なこのような子供達は、普通「よい子」と呼ばれている。

  「よい子」は、いつも他人の目を気にしている(加藤諦三人生の悲劇は『よい子』に始まる 」PHP文庫)。彼らは自分を主張する事は悪いことであり、親や教師のために尽くすことが、結局は自分のためになり、正しいことだと信じている。このような子はやがて自分を殺して、親のため、教師のため、会社のための人生を送ることになるだろう。

  それなら「自分を生かす」ためにはどうしたらよいのだろうか。実はそこに子供に「自立心」を教えるという「父親の役割」があるのだ(国分康孝「 『自立』の心理学講談社現代新書 ) 。「自立」とは単に職について生活費を稼ぐことではない。自分の能力に自信を持って、人生を切り開いていくことなのだ。子供は、堂々と自分の決断力で家族を導く父親の背中で「自立」を学ぶのである(河合隼雄人間の深層にひそむもの 」大和書房 ) 。

 母親の役割は「思いやり」を産み、父親の役割は「自立」を育む。自立なき思いやりは「浮き草」となり、思いやりなき自立は「孤立」となる。この母親と父親の役割の微妙なバランスが、子供の基本的な人格を作り上げる。難しいことだが、片親だけでもこの二つの役割を果たし、立派に子供を育ててる親も多い。

  回りがどんなに管理化され、画一化されようとも、子供たちは自分の心とからだで、自分が本当に生きてるのだという実感をつかもうとする(スタジオアヌー「 子供!晶文社)。どんな親にもこの「自立」の芽を摘むことはできない。子供に親ができるのは、巣立つ雛たちに飛び方を教え、気持ちよく飛び立てるように助走路を作ってやれるだけなのだ。子供たちの人生、それはその子供自身にしか作れないのである。

 

追記 

この ( 異文化文献録 ) のシリーズは、 20 年近く前にあるタブロイド紙で連載したコラムである。これは、僕の文章スタイルの原点でもある。引用文と地の文が明確でないし、ネット・メディアとはあまり関係ないと思われるかもしれない。だが、メディアは現代文化のひとつの様相であり、文献をつないで現代日本人を探る姿勢は変わらない。自分のデータベースとしては、このシリーズを載せないでは中途半端だと思っている。

 

※ エクスポートの時消えた異文化文献録の1編

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