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素人だから言えることもある

失望の構造(悲しみが希望に変わるとき・4)

「誰でもよかった」の意味

最近、通り魔殺人事件が多発している。例えば、地下鉄東陽町駅前の事件。

19日、東京・江東区東陽町駅の前で通行人ら4人が男に刃物で次々と刺されてけがをした事件で、逮捕された元暴力団員の男が意味の分からない話をしている一方で、「男性を狙って人を刺そうと思った。誰でもよかった」などと供述していることが、捜査関係者への取材で分かりました。
19日、東京・江東区の地下鉄・東陽町駅の前で、通行人の男性ら4人が刃物を持った男に次々と刺されてけがをした事件で、警視庁は、殺人未遂の疑いで逮捕した元暴力団員の49歳の男を20日、東京地方検察庁に送りました。
これまでの調べによりますと、男は「自分の体内から『人を刺してみろよ』と聞こえた」などと意味の分からない話をしているということですが、事件について「男性を狙って人を刺そうと思った。誰でもよかった」などと供述していることが、捜査関係者への取材で分かりました。
男は19日の朝、現場近くの自宅から包丁とナイフを2本持ち出し、駅前の交差点や駅の出入口付近にいた30代から60代の男性らを次々と刺したということです。(NHKニュース 通行人刺し逮捕の男「誰でもよかった」)

2月のグアムの事件。

 【グアム=井田香奈子】グアムで12日夜、日本人観光客多数を巻き込んだ無差別襲撃事件に関して、地元捜査関係者は13日午後、知事公舎で記者会見し、状況を説明した。
 捜査当局によると、2人を殺害した疑いなどで逮捕されたのはチャド・デソト容疑者(21)。グアム警察のボダリオ署長によると、デソト容疑者は取り調べに対し「人を傷つけたかった」と話したが、その後は黙秘しているという。
 捜査当局は、共犯者や背後の組織はなく、デソト容疑者が単独で実行した犯行とみており、被害者の国籍などにかかわりなく無差別に殺傷したとみている。
 捜査当局によると、デソト容疑者は現地時間の12日午後10時20分ごろ、グアム中心部の繁華街にある歩道を乗用車で約90メートル走って歩行者をはね、食料雑貨チェーン店「ABCストア」に突っ込んだ。その後、ナイフを持ち出し、店内にいた客を次々に刺したが、警備員に取り押さえられ、駆けつけた警察官に逮捕された。 (朝日新聞デジタル「人を傷つけたかった」 グアム殺傷事件の容疑者 )

昨年12月のアメリカの小学校の乱射事件。

 【ニュータウン=中井大助、ニューヨーク=真鍋弘樹】米東部コネティカット州ニュータウンの小学校で14日朝(日本時間14日深夜)、20歳の男が銃を乱射し、児童20人を含む計26人が死亡した。容疑者は自宅で自分の母親も殺害し、乱射の現場で自殺したとみられる。幼い子ども多数が銃の犠牲になるという米史上でも例のない事件に、オバマ米大統領も「意味のある行動を」と銃規制に取り組む必要を訴えた。(朝日新聞デジタル米の小学校で男が銃乱射、児童20人含む26人犠牲に)

その犯人、アダム・ランザについて、MikSの浅横日記によれば、

 当局によれば、ランザ氏(20)は戦闘服を着て、わが国の歴史の中で最悪の学校乱射事件のひとつを実行した。彼は、彼の母が働いている小学校で子供20人と大人6人を撃ち殺した。その後、彼は自分に銃を向けたようだ。警察によると、それに先立って、彼は自分の母親も射殺していた。

 彼の短く終わった青年時代に、ランザ氏は、ネット上であれ他の場所であれ、ほとんど足跡を残すことはなかった。彼は、ニュージャージー州ホーボーケンに住む彼の兄ライアン――金曜日に数時間、この虐殺事件の加害者として誤認報道された――とは異なり、Facebookのページももっていなかった。

 アダム・ランザは、彼の高校の卒業アルバム、2010年のクラスのアルバムに顔を載せてすらいなかった。彼の写真が載るはずのところには「カメラ嫌い(Camera shy)」と書かれていた。その年に卒業した人々は、彼が卒業したとは思えないと述べた。

 現在コネティカット大学の二年生のマット・ベイアーや高校の他の同級生たちが思い出せることは、ランザ氏が社会的な状況の中で心中いかに気づまりだったかということだ。(銃乱射事件容疑者の素顔 [海外メディア記事] )

 このような無差別事件の犯罪者たちは、突発的でまわりの人間から見れば理解不能な事件だ。僕は、どうしても秋葉原の事件を思い出す。2008年6月に書いた「誰でも良かった」犯人は、誰でもなかったその他大勢の一人の中で、僕は孤立感でさいなまれた心境を考えた。

人が足りないから来いと電話が来る 俺(おれ)が必要だから、じゃなくて、人が足りないから 誰が行くかよ(毎日新聞・誰でもよかった:秋葉原通り魔事件/上(その1) 孤独な心情、サイトに)
彼女がいれば、仕事を辞めることも、車を無くすことも、夜逃げすることも、携帯依存になることもなかった. 希望がある奴にはわかるまい(Nine Gates of Heaven in Hatena)

 「誰でもよかった」とは自分が誰かの代替品でしかなかったことを意味する。おそらく、秋葉原の犯人も派遣先の工場でそういう扱いをされてきたのだ。自分が自分であることを常に感じていればそういう答えは出なかっただろう。だが、彼らにはそんな発想はなかった。
 大切な人を亡くすということ悲しみが希望に変わるときでは、希望には「大切な人」が必要であり、大切な人の役割は、本人の承認欲求を満たす人間のことであることを考えた。つまり、これらの事件を起こす犯人たちは、自分を承認してくれる「大切な人」がいなかったのだ。希望どころか、自分の人生に失望してしまった状態だろう。「自分は誰か」「自分はどうあるべきなのか」自分で自分を否定してしまった彼らは、自殺する勇気もなく、他人を巻き添えにしなければ自分自身に対する悔恨を消化しきれなかったのかもしれない。

空洞を抱えた自分

僕は、大切な人を亡くすということでこう書いた。

大切な人を、その人個人に限定してしまうと、その個人が死ぬと、後を追ったり、自暴自棄になったりする。テロリストの発想は、いとおしい個人の死によって、世の中は全部だめだという発想だ。一方、誰にも大切な人がいるという発想を持つと希望が生まれる。

人間には、間違った方向に落ちている自分を正しい方向に導いてくれる「大切な人」が必要である。「大切な人」を持たない彼らは、なかなか他人を信じることができない。僕は、黒手塚ワールド「MW」の中で、映画「復讐するは我にあり」の今村昌平監督の言葉を引用した。

「復讐は神の業であり、人間がなすべきではない」という教えを、キリスト教徒である男は、百も承知しながら、肢体の律法にのみ従い、刑死を以て自己完結する。
犯罪のすべてを描くことで、私は現代と、現代人の存在の根を捉えようと思っている。
この男の内部は、空洞でしかないのではないか。
この男の中に、私はよるべない現代人の魂を見る。
使徒パウロの、ローマ人への手紙の中に、「私は、内に神の律法を認めながら、肢体には別の律法があって、心の法則に対して戦いをいどみ、肢体に存在する罪の法則の中に私をとりこにしているのを見る。私は何というみじめな人間なのだろう」とある。(今村昌平監督「復讐するは我にあり・演出にあたって」松竹)

今村監督の言う「よるべない現代人の魂」とは何か。そもそも「よるべない」とは、

身を寄せるあてがない。頼りにできる類縁の者がいない。孤独であり不安である。(Weblio辞書-実用日本語表現辞典-寄る辺ない)

僕は、この言葉の中に「三ない主義」との共通点を見る。現代日本人の精神の貧困「三ない主義」で考えた「対話がない」「考えない」「希望がない」が現代人の空洞の正体なのだと思う。友人や家族がいても、それがただのモノと変わってしまっている自分がいるとしたら、それは自分の心の中に空洞が増えつつある証拠なのだ。

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