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素人だから言えることもある

知ったかぶりがこの国をつぶす

 CNETjapanの読者ブログを読んで見ると、いわゆるIT業界関係者が多い。おそらく読者もそうだから、執筆者のほとんどもそうだろう。そして実に90パーセントは男性である。もちろん、業界紙や経済紙を読むエリートビジネスマンというのは昔からのステータスシンボルとなっている。

しかし、この人たちには大きな欠点がある。それは皆「知ったかぶり」が多いということだ。「知ったかぶり」の特徴は、自分が無知だということを隠そうとする。僕などは、全く業界とは関係ないので、「素人だから言えることもある」と看板を掲げている。だから、知らないことは初めからふれない。だって専門家に議論を吹っかけても何の得にもならない。

ところでビジネスマンの語源をご存知だろうか。

ビジネスの語源はbisignis(苦労・孤独)だが、やがてbissinesse(多忙)を経て現代のbusiness(職業・仕事)にたどりつく(吉沢典男石綿敏雄「外来語の語源」角川書店)
もともと、欧米では労働を罪悪視するキリスト教文化があるためだ。
 旧訳聖書において、人類の祖先アダムとイブが、禁断の実を食べたためにエデンの園という「遊び」の楽園を追い出された。人間はこの罪のために、「労働」をしなければならなかった。「労働」とは人間にとっての罰だったのだ。したがって、一週間に一回の安息日に遊ぶのは当然のことである。(日本文化デザイン会議編「遊びの再発見」紀尾井書房)。(「あそびのすすめ
 前項「メディアとファンタージェン」でミヒャエル・エンデの「はてしない物語」にふれたので、今回は「モモ」(ミヒャエル・エンデ著/岩波書店)にふれる。「モモ」の中にビジネスマンを思わせる男たちが登場する。
 「モモ」とはこんな話だ。「モモ」という身寄りの無い女の子は、相手の話を何時間もかけてじっと聞く。すると、不思議なことに相手は自分の本質が、まるで鏡のように見えてくるのだ。そして自分が正しいか正しくないかを、納得して帰る。だから、町の人たちは皆「モモ」に話を聞いてもらいにくる。だが、ぱったりと町の人がこなくなった。その町に時間貯蓄銀行のセールスマンという灰色服の男たちが増えたためだ。彼らは、「時間の節約」を訴える。「時は金なりです。時間の無駄遣いをしていては、幸福になれません」町の人たちは、せかせかして「時間の貯蓄」を始める。人々は、心のゆとりを求めながら、心のゆとりを失っていく。余暇時間さえも、「時間」がもったいないからといって、「娯楽」を詰めこむだけ詰めこみ忙しなく遊ぶ。また子供たちにも、役に立つ遊びしかさせてもらえない。そして、言われたことだけ嫌々やり、好きなことをしてもいいよと言われると、とまどって何もできない子供に育つ。やがて人々は感情を失い、心が空っぽのせかせか動き回る灰色の男のようになっていく。集められた「時間」は決して人々には返らない。「モモ」が、その「時間」を取り戻すまで。(「時間が足りない
「モモ」は決して、相手の話が間違っているとか、正しいとか説得したりはしない。相手の言い分を時間をかけて聞くだけだ。「知ったかぶり」の人間はこの逆である。相手の時間を奪ってまで相手を説得しようとする。

エンデはこういう。

「私たちは内的な時間を尺度にすべきであって、外的な時間を尺度にすべきじゃないということだけは、再び学びなおさなければなりません。私は『モモ』の中でそれを試みたわけですが、時計で測れる外的な時間というのは人間を死なせる。内的な時間は人間を生きさせる」(河合隼雄・ミヒャエル・エンデ「三つの鏡」朝日新聞社

「時間」には、時計で測れる「外的時間」と心で感じる「内的時間」がある。例えば、嫌いな友達とは短時間でも話すと「内的時間」は長く感じるし、好きな友達とはどんな長時間であっても「内的時間」は短い。「内的時間」には、好き嫌いや興味、やる気、好奇心、生きがいなど心理的なものが影響しているのがよく分かる。たとえ「外的時間」が不足していても、「内的時間」が充実していれば、それほど「時間が足りない」とは感じないはずだ。

問題なのは「内的時間の不足」を「外的時間」の不足と取り違えて、余暇を増やせばよいと単純に考えることだ。「時間が足りない」の自覚症状は、実は人々にやる気や好奇心が消え失せつつあるということなのである。(「時間が足りない」)

確かに、「知ったかぶり」をすればわざわざ学ぶ時間を節約できるかもしれない。だが、学ぶ楽しさを切り捨ててると同じなのである。でもビジネスマン諸君、そんなに忙しくてどうするの?「忙」はりっしん弁に亡いと書く。「心がない」ということであり、時間を忘れるや忘年会の「忘」も「心がない」と書くではないか。
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