夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

テレビは視聴者を信じない

 関西テレビの千草社長が、「あるある大事典」について総務省に報告書を持って行った行動に失望したことがある。おそらくメディアに弱みを握られまいとしたのだろう。顔面蒼白のままその内容については一切語らなかった。僕は「この社長もか」と思ったのだ。

 僕は、ほんの2年前、「メデ ィアの自殺」と題して書いたことがある。例のホリエモンニッポン放送を買収しようとした事件のときだ。フジテレビがテレビの「公共性」を説いたことがあった。だが彼らに「公共性」をかたる資格があったのだろうか。本当に「公共性」があったのなら視聴者から怒りの声が出てくるはずだ。「あんたが言うなよ」という気分だった。

 さらに「メディアの行方」で

 メディアの自殺と題したのはわけがある。一つは、その放送局が「公共」的であるのかどうかを判断するのはあくまでも視聴者であり、自ら主張すべきではないことと、せっかくのチャンスであるこのときに、視聴者を巻き込んだ番組を作ることができるのに、何もしていないことだ。これでは視聴者はなんとつまらない放送局だと思うのは当たり前である。もちろん、それどころではないというだろうが、外野から見ればどうしても守勢に回されるメディアのふがいなさに目が行ってしまうのだ。
 関西テレビの千草社長の目はすでに政府のほうを向いていた。決して視聴者に向き合うことはなかった。

「英語イメージ辞典」(赤祖父哲二編/三省堂)にこうある。

Dream

米語で映画産業のことをdream factory、TVのことをdream machineという。American Dream(立身出世の夢)をふりまいてくれるからである。語源(「だます」の意のオランダ語)にぴったりなのだが、夢のない人生は砂漠。いや、砂漠にも蜃気楼がある。ギリシアでは西方にある至福の島(死と再生の国)から夢がやってくると信じられていた。シェイクスピアによれば、人間に夢見させるのは妖精マプの魔法の力による-『ロミオとジュリエット』。

 テレビはかつてdream machineだった。人々にたくさんの夢を見せてくれた。テレビジョンがいつしかテレビと変わったとき、そこにはすでにビジョン(展望)がなくなっていた
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