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素人だから言えることもある

政治家の失言とマスコミの報道

 どうも、安倍政権は大臣に恵まれないようだ。今度は久間防衛省大臣の発言だ。長崎出身であり、初代防衛省大臣という責務にありながらこの発言はいただけない。

「その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている」
 政治家は、代議士とも言うが、誰の代わりの代議士かといえば有権者の代わりなのである。それがいつのまにか、有権者よりえらくなり、いかにも自分の意見が有権者の言葉だと思い込んでいる。

 その意味では、マスコミと同じだ。マスコミは、視聴者の代わりに、怒って見せるが、彼らは考えることはない。なぜなら、マスコミには脳がないからだ。視聴者が興味を持ちそうなことを先回りして探し出すことしかできない。それが、視聴率があると、自分に脳があるように思い込む。一部の視聴者が崇め奉るものだから、権威と変化する。

 政治家は人間だから、当然脳がある。党則にしたがっているうちは、ひとつの政治機関として行動している。このときは、政治家たちは自分の脳を使う必要はない。ところが、どこかの講演会で発言する機会が与えられると、自分の脳を使わなくてはならないから、失言する。ひょっこりと自分の言葉がでてくるのだ。

 マスコミには、言葉尻を捉えるという能力がある。なぜなら、彼らには脳がないのでデータを3分しか貯めて置けない。そうなると、いきおい、見出し一行にはまる言葉とか、3分間に編集できる言葉しか興味がない。こうして、政治家の失言ばかり増えていくのである。

 それなら、安倍首相に失言はないのか。僕はかつて「しっかり晋ちゃんもいた」と言うタイトルでこんな事を書いた。

「なんだろう」とその否定形『ないんだろう』、その変形(違うんだろう)(いるんだろう)はいずれも『思う』か『感じる』で受けている。これは安倍首相のマイルドなイメージを作るとともに、発言の不確かさ、あいまいさを露呈している。さかんに「しっかり」を強調しているのも、自らが『しっかり』していないためではないだろうか。相手に対して「しっかり」を要求しながら、自らが「なんだろうと思う」などと言葉を濁していれば、交渉は結局腰砕けに終わってしまうだろう。無用な発言で相手を怒らせては元も子もないが、意味不明な発言で終始していたら首相など務まらないことを肝に銘じるべきであろう。
 と書いたが、最近その手の発言を意識して控えているようだ。その分、安倍首相は「何を言ってるかわからん」ことになってしまった。「メディアは屈折する」に書いたように、
一方、メディアはものごとをはっきりきわただせて書かなければならない。小泉劇場にメディアが翻弄されたのは、この小泉流のワンフレーズのわかりやすさである。次から次に繰り出される奇手の連続にメディアは振り回され、本来目を光らせるべき部分にまでおろそかになってしまったが。当然、安倍首相は小泉元首相に比較される。わかりにくいから支持率が上がらない。安倍首相は言葉で引っ張っていくことは無理だと思い、行動に出たのである。だが、行動にもクエスチョンが出てしまった。
 今日も、テレビの中では、有権者の代表である「政治家」と視聴者の代表である「マスコミ」のちぐはぐな激突が繰り広げられている。
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