夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

コンテナーからコンテンツを取り戻せ

 最近のエントリーでは、日米のメディアの違いについて考えているのだが、たとえば日本のテレビの特徴を「コピーワンス問題からほの見える日米のテレビと映画の立場」に引用した言葉でみると

 これに対して,日本ではいわゆる在京キー局が(別会社に制作を委託するにしても)番組の著作権を保有するケースが多い。米国とは異なり,番組(コンテンツ)と放送ネットワーク(メディア)が分離していないのだ。(IT proのコラム「Joostに見るグローバルTVの可能性と限界(後編):日本のテレビ局はなぜインターネット事業に消極的なのか」より)
 放送局は制作会社(コンテンツ)を囲い込み、自分たちに都合のよい番組を作り出す。たとえば「ネットがテレビを放送する日」で紹介した「著作隣接権」などが放送局に都合のよい法律ができている。「著作隣接権」とは
 放送事業者は、コンテンツの制作と流通がドメインであるため、自ら制作した番組の著作者となるほか、番組を放送しただけでも「著作隣接権」が付与される。

(中略)

 しかし同時に、放送のための一時的固定と、商業用レコードは許諾を受けずに利用して後刻2次使用料を払えばよい、といった規定があるため、放送の素材として著作物を利用することが容易となっている。

 テレビ番組には、放送局や脚本家のほかに、出演する俳優、使用する音楽のレコード会社や歌手といった、数多くの権利者が関係している。

 そこで著作権上の「放送」であれば、前述のとおり商用レコードについては事前の許諾なく使用して、事後に使用料を払えばよい。(「ネットがテレビを飲み込む日」)

 制作会社はこの法律のために、テレビ局と関係なく番組を作ることは著しく制限されている。またスポンサーと電波管理は放送局が握っているため、独自に作りたい企画があっても、テレビ局を通さなければ制作すらできないのだ。

 このようなテレビ局と制作会社の関係をどう表現したらいいのだろうと思っていたら、「サイバージャーナリズム論」(歌川令三、湯川鶴章佐々木俊尚、森健、スポンタ中村著/ソフトバンク新書)でこんなエピソードが紹介されていた。

 米国の新聞業界にもインターネットのポータルサイトがニュース配信するという新たな敵が出現した。そこで、米国の新聞経営者は「紙」へのこだわりをかなぐり捨てて、新たな“敵”と対決すべく「電子部門を強化せよ」の戦略に転換したのだ。彼らの合言葉は「コンテナーではなく、コンテンツに注目せよ」だ。このセリフを流行らせたのがAP通信社のトム・カーリー社長で、メディア研究シンポジウムの席上、「問題はコンテナー (container)にあるのでなく、コンテンツ(contents)をいかに活用するかだ」と述べた。

 コンテンツとは情報の中身、コンテナーとは情報の容れ物のことだ。新聞社は長年にわたり、マスコミ界で情報のコンテンツ作りの王者だった。それを新聞という紙製のコンテナーに詰め込んで、読者に運んでいた。ところが、電子メディアの出現で、コンテナーの鍵をこじ開けられてしまった。

 カーリー氏は、電子時代の現実を“中身”と“容れ物”という二つの「C」の対比で表現した。「今や紙だけが情報伝達の運搬用具ではなくなった。容れ物の形態にこだわらずに、新聞社のもつ素晴らしい情報コンテンツをいかに効率よく売りさばくか。それがこれからの課題だ。電子でしっかりと広告を稼げ」というのが、彼の言わんとするところだ。

 新聞協会発行の雑誌『PRESSTIME』は、こんな社説を掲げている。

新聞社の電子版の広告は爆発的に伸びる。だから電子新聞に掲載する情報は出し惜しみするな。サイトに壁を作るな。そんなことをすると、検索エンジン経由でせっかくアクセスしてきた読者に悪い印象を与え、広告集めにマイナスの材料を自ら作ることになる。タダで閲読しているからといって「電子版」の読者を馬鹿にしてはいけない。「紙」「電子」にかかわらず読者は本来利口で熱心で協力的なのだ。コミュニティーのニュースや写真を提供してもらい、電子新聞の内容をもっとコミュニティー密着型にして新規の閲読者を獲得せよ。(「サイバージャーナリズム論」第一章 新聞ビジネス崩壊の予兆/歌川令三著)

 しかし、日本の新聞はインターネットにニュースを流すものの、肝心な部分は出し惜しみしたり、数日立つとリンク切れになったりする。古い記事は有料データベースでどうぞというわけだ。僕は「無料の知識と有料の知識」でこんなことを書いている。
 たとえば、新聞メディアがそうだ。新聞はインターネットで新しいニュースを流している。しかも無料である。ニュースを報道するには、かなりなコストがかかる。そのコストは、新聞を購読している読者の新聞購読料と広告とで成り立っている。したがって、同じニュースであっても、インターネットでは無料になり、新聞では有料となる。もし読者が一斉に、インターネットでニュースが見られるから、新聞は要らないと言い出したらどうなるか。新聞はインターネットのニュースを有料にできるのだろうか。(もちろん、新聞各社は過去の新聞データをデータベース化して有料化している。でも、新鮮なニュースが無料で、古いニュースが有料なんてやっぱり変だ。)
 なぜ、アメリカ並みに広告で儲けようとしないのか。歌川氏は次の3点を挙げている。(1)購読料金。日本は3925円(朝夕刊)、アメリカは954円(ニューヨーク・タイムス朝刊配達料1ドル120円換算)(2)アメリカは、新聞専売店がなく配達はアルバイトの子供(3)新聞社の収入構造。日本(販売:広告65%:35%)アメリカ(販売:広告15%:85%)
 高値で売って代理店と山分けする日本、安値で売って広告で儲ける米国、この異なるビジネスモデルが、「電子」時代対応の日米経営戦略の際立った違いとなって表れる。米国は販売収入依存が小さいがゆえに、「紙」新聞をあきらめて「電子」で広告を稼ぐ戦略転換が可能だ。(「サイバージャーナリズム論」第一章 新聞ビジネス崩壊の予兆/歌川令三著)
 ここでも「コピーワンス問題からほの見える日米のテレビと映画の立場」のアメリカの映画会社の立場と共通点が見えてくる。

 アメリカではコンテンツとコンテナーが分離されているために、インターネットでも自由に商売ができるが、日本はコンテンツがコンテナーにがんじがらめに掬い取られているゆえに、インターネット上では商売ができない。新聞などは、コンテンツに金を払っているつもりだったが、実はコンテナーの面倒はもちろん、インターネットの無料ニュースの資金まで新聞購読料に含まれていたのである。

CNET Japanのブロガーでも有名な佐々木俊尚氏は第三章でこんなことを書いている。

 メディアを考えるときに、コンテンツとコンテナーという分け方がある。番組や記事がコンテンツであり、それを人々に伝える電波や印刷物、ウェブサイト、メールなどがコンテナーだ。

 本当の通信と放送の融合というのは、メディアを「コンテナー本位制」から「コンテンツ本位制」へと移行させることである

 これまでのテレビ局は電波免許というコンテナーにしがみつき、コンテンツ制作者である番組制作会社を下請けとしていじめ抜いてきた。だが今後、ブロードバンドの普及などでテレビが多チャンネル化していけば、秀逸なコンテンツを作るクリエーターこそが重要なのであり、どのチャンネル(コンテナー)で番組を送り出すかは重要でなくなる。(「サイバージャーナリズム論」第三章 テレビ局をめぐる大いなる幻想/佐々木俊尚著)

 思えば、「本当に次世代DVD、華開くのか」で取り上げたDVDすら、コンテンツを入れたコンテナーに過ぎないのであり、さらにもっと考えればAV家電そのものがコンテナーに過ぎなかった。インターネットは、このコンテナーとコンテンツを分離する巨大な波となって、メディア世界に襲い掛かっているのかもしれない。
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