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素人だから言えることもある

愛とLOVEの不思議な関係 (異文化文献録)

 「やっぱり恋愛ってあるのねえ。そういう恋愛って、映画とかそういうのだけで、実際にはないと思っていたの。もしあったら、怖いと思ってたわ。なんだか、自分がなくなっちゃうみたいで」(山田太一「想い出づくり」大和書房)

 愛ってなんだろう。「愛」はもともと、仏教の言葉だったという。「愛」は、渇愛ともいって、のどが渇いている人が水を求めるように、激しく欲求することなんだ(「仏教哲学大辞典」)。仏教では、仏道修行者をさまたげる煩悩の一つで、現在の意味のように良い意味では使われていない。

 それじゃ、昔は愛はなかったのかというと、もちろんそうじゃない。男がいて、女がいれば、そこにお互いが好きになる感情が生まれる。これは自然な感情だ。だけど、平安時代では「愛」と呼ばず「恋」と呼んだ(松田道雄女と自由と愛岩波新書)。「恋」は、男女間の感情をあらわすが、また大変もろいものだった。当時は(実はつい最近の第二次世界大戦以前までつづく)、結婚は親が決めていた。家柄や格式のつりあうものが、結婚の条件であって、本人が好きかどうかなんて関係なかった。現代の君たちには、信じられない世界だろう。だから、江戸時代には、恋を認められない男女が死ぬ「心中」物の芝居が人気を持っていたのだ。

 ヨーロッパの「LOVE」は、これとかなり違う。キリスト教の教会が、強大な力を持っていて、神の愛(=LOVE)を説いていた。また、男女間の感情も「LOVE」と呼んでいる。神の「LOVE」は、地球愛・人類愛に通じる普遍的なもの。男女の「LOVE」は日本の「恋」と同じ個人的でうつろいやすいもの。この二つが同じ「LOVE」と表現されているんだ。神の前で永遠の「LOVE」を誓った男女が、「LOVE」を失っても離婚が許されなかったのは、この二つがたてわけて考えられなかったせいだと思う。

 ところで、日本にも「聖書」が輸入されることになった。困ったのは、聖書の翻訳者。男女間の「恋」はあるが、神の「LOVE」を訳す言葉がない。「神の恋」なんて言ったら、まるで人間くさいギリシャ神話になってしまう。ちなみに、仏教では普遍的な愛を示す言葉は「慈(いつくしみ)」という。例えば「仏の慈悲」などと表現している。つまり「LOVE」はこの「恋」と「慈」が一緒になったようなものなのだ。

 それでは、なぜ聖書の翻訳者は「愛」の字をあてたのだろう。僕の想像だが、「逢う」という言葉からきたのではないだろうか。人と人とが出逢うとき、「愛」が生まれる。「愛」が「あい」になり、同じ音の「愛」をあてたのだと思う。

 「愛」の変遷史を見ると、より視点がグローバル化してるのがわかる。愛は人を人としていとおしむ心である。身分の上下関係はあっても、心の中では対等である。男女間の個人的な愛情も、人類愛・地球愛の普遍的な愛情も、相手は自分と同格の同じ人間じゃないかという意識が心の中にあるからだ。地球がとりあえず平和なのは、「愛」が残っているからだし、後世の子孫に伝えなければならないのは、最初にこの「愛」だと思うのである。


追記

この ( 異文化文献録 ) のシリーズは、 20 年近く前にあるタブロイド紙で連載したコラムである。これは、僕の文章スタイルの原点でもある。引用文と地の文が明確でないし、ネット・メディアとはあまり関係ないと思われるかもしれない。だが、メディアは現代文化のひとつの様相であり、文献をつないで現代日本人を探る姿勢は変わらない。自分のデータベースとしては、このシリーズを載せないでは中途半端だと思っている
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