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素人だから言えることもある

学校なんて大嫌い(異文化文献録)

 「学校なんて大嫌い みんなで命を削るから 先生はもっと嫌い 弱った心を踏みつけにするから」(堀尾輝久「教育入門岩波新書)これはある中学生の遺書である。学校がつまらないと思ったことは誰でもあるはずだ。こんなときに、アメリカの学校では宿題も少なく、休みも多いなんて聞いたら、なんて天国みたいなところだろうと思う。日米のこの教育観の差はいったいどこにあるのだろうか。そんなことを調べてみることにした。

 人間は、動物のなかでもっとも未完成な状態で生まれてくる。一人で立つこともできなければ、乳房にしがみつくこともできない。人間は生まれながらに一生「学習」することによって人間としての完成をめざす(稲垣佳世子・波多野誼余夫「人はいかに学ぶか中公新書)。これは言い換えれば、人間とは学習によって何にでも成れる大変可能性の高い動物だということだ。「学習」の「学ぶ」とは、「まねぶ」であり、「習う」とは「慣れる」のことである。つまり、先生の示すお手本を繰り返し繰り返し、慣れるまでまねることが「学習」することなのだ(森田良行「日本語をみがく小辞典講談社現代新書)。そして、「学習」して身につければ、それはその人の人生を豊かにするための「能力」となる。しかし、「能力」とは本当に外から与えられるものだろうか?

 英語のEDUCATION・教育の語源は「引き出す」である。「能力」は個人個人がそれぞれ持っているものである。教育はその「能力」を引き出す手助けをしているに過ぎないのだ(赤祖父哲二「英語イメージ辞典」三省堂)。従って人により引き出される能力はさまざまであり、違って当たり前なのである。

 それに対して、日本の教育は同じ知的水準を要求する。いわばアメリカの教育が、「お前はお前、俺は俺」の教育なのに対して、日本の教育は「みんな一緒」の教育なのだ。「みんな一緒」の服を着て、「みんな一緒」の教科書を使う。だから、母親がよく言う言葉に「あの子に負けるのはお前の努力が足りないから」という。決して、ウチの子に能力が無いなんて考えもしないのである。だが、アメリカでは「努力」という言葉はほとんど使われない。「能力」の無い者に「努力」を強調しても無意味だという考え方があるからだ(加藤恭子、マーシャ・ロズマン「言葉で探るアメリカ」ジャパンタイムズ)。この考え方も、大変厳しい考え方である。無能力者と烙印をされたら、その分野での死を意味するからだ。学校の環境が日本よりも楽に見えるが、勉強をしない人間に厳しい点は、アメリカは日本以上なのである。

 「みんな一緒」の教育を受けた人間は、独創的で個性的な人間を排除しようとする。目立つことはチームワークを乱す元だからだ。この点もアメリカと逆だ。アメリカでは、オリジナリティーの無い人間は認められない。独創的な人間は自分の能力に自信を持っている。このことがアメリカ国民の層の厚さとなっているのである。確かに日本の知的水準は上がっている。文盲率もゼロに近い。だが、この中に自分の本当の能力に自信を持っているものは何人いるだろう。真の教育とは、生徒に自分の持つ好奇心を最大限に引き出し、学ぶ楽しさを教えて生きる自信につなげることなのだ(稲垣佳世子・波多野誼余夫「知的好奇心」「無気力の心理学中公新書)。

 また、決して教育は学校の間に限ったことではない。自分から学ぼうという姿勢があれば、自ずから道が開くものであり、このコラムも知的好奇心のきっかけとなればと著者は考えている。


追記

この ( 異文化文献録 ) のシリーズは、 20 年近く前にあるタブロイド紙で連載したコラムである。これは、僕の文章スタイルの原点でもある。引用文と地の文が明確でないし、ネット・メディアとはあまり関係ないと思われるかもしれない。だが、メディアは現代文化のひとつの様相であり、文献をつないで現代日本人を探る姿勢は変わらない。自分のデータベースとしては、このシリーズを載せないでは中途半端だと思っている
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