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素人だから言えることもある

時間が足りない(異文化文献録)

 僕たちは、絶えず毎日の生活に追われている。学校に行き、会社に行き、食事をして、睡眠を取る。そして口にする言葉は、「時間がない」「暇がない」で、みんな忙しがっている。しかし、1日24時間は、古代から変わらないはずだ。なぜ、現代はそんなに「時間が足りない」のか。今回は「時間」について考えてみよう。

 「時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味がありません。というのは、誰でも知っている通り、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、逆にほんの一瞬と思えることもあるからです。なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活はその人の心の中にあるからです」(ミヒャエル・エンデモモ岩波書店

 「時間」には、時計で測れる「外的時間」と心で感じる「内的時間」がある。例えば、嫌いな友達とは短時間でも話すと「内的時間」は長く感じるし、好きな友達とはどんな長時間であっても「内的時間」は短い。「内的時間」には、好き嫌いや興味、やる気、好奇心、生きがいなど心理的なものが影響しているのがよく分かる。たとえ「外的時間」が不足していても、「内的時間」が充実していれば、それほど「時間が足りない」とは感じないはずだ。

 問題なのは「内的時間の不足」を「外的時間」の不足と取り違えて、余暇を増やせばよいと単純に考えることだ。「時間が足りない」の自覚症状は、実は人々にやる気や好奇心が消え失せつつあるということなのである。

 エンデはこう言う。「私たちは内的な時間を尺度にすべきであって、外的な時間を尺度にすべきじゃないということだけは、再び学びなおさなければなりません。私は『モモ』の中でそれを試みたわけですが、時計で測れる外的な時間というのは人間を死なせる。内的な時間は人間を生きさせる」(河合隼雄・ミヒャエルエンデ「三つの鏡朝日新聞社

 「モモ」とはこんな話だ。「モモ」という身寄りの無い女の子は、相手の話を何時間もかけてじっと聞く。すると、不思議なことに相手は自分の本質が、まるで鏡のように見えてくるのだ。そして自分が正しいか正しくないかを、納得して帰る。だから、町の人たちは皆「モモ」に話を聞いてもらいにくる。だが、ぱったりと町の人がこなくなった。その町に時間貯蓄銀行のセールスマンという灰色服の男たちが増えたためだ。彼らは、「時間の節約」を訴える。「時は金なりです。時間の無駄遣いをしていては、幸福になれません」町の人たちは、せかせかして「時間の貯蓄」を始める。人々は、心のゆとりを求めながら、心のゆとりを失っていく。余暇時間さえも、「時間」がもったいないからといって、「娯楽」を詰めこむだけ詰めこみ忙しなく遊ぶ。また子供たちにも、役に立つ遊びしかさせてもらえない。そして、言われたことだけ嫌々やり、好きなことをしてもいいよと言われると、とまどって何もできない子供に育つ。やがて人々は感情を失い、心が空っぽのせかせか動き回る灰色の男のようになっていく。集められた「時間」は決して人々には返らない。「モモ」が、その「時間」を取り戻すまで。

 この物語は、現代の文明社会の問題点を暗示している。例えば、せかせか動く灰色の服の男たちは、グレイスーツに身を包む現代ビジネスマンのようだ。ビジネスの語源はbisignis(苦労・孤独)だが、やがてbissinesse(多忙)を経て現代のbusiness(職業・仕事)にたどりつく(吉沢典男石綿敏雄「外来語の語源」角川書店)。だから、言葉の意味ではbusinessmanよりもbusynessman(多忙な男)の方が似つかわしい。

 また、「忙がしい」の「忙」の字もよく見てほしい。「心が亡い」つまり「心の中に心が無い」という意味だ。(ハルペンジャック「漢字の再発見」詳伝社)これは、忙しくて「内的時間」を感じる暇もないととらえることができる。

 僕たちは、灰色の男のようになる前に「内的時間」を育てなければならない。僕たちにできること、それは「モモ」のように、友達を作って人々と心のコミュニケーションをすることなのだ。


追記

この(異文化文献録)のシリーズは、20年近く前にあるタブロイド紙で連載したコラムである。これは、僕の文章スタイルの原点でもある。引用文と地の文が明確でないし、ネット・メディアとはあまり関係ないと思われるかもしれない。だが、メディアは現代文化のひとつの様相であり、文献をつないで現代日本人を探る姿勢は変わらない。自分のデータベースとしては、このシリーズを載せないでは中途半端だと思っている。
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