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素人だから言えることもある

あそびのすすめ (異文化文献録)

All work and no play makes Jack a dull boy.「勉強ばかりで遊ばないと、ジャックは馬鹿になる」(奥津文夫ことわざの英語講談社現代新書)このことわざを知って、日本には「遊び」を勧めることわざがないのに気がついた。日本では、「遊び」という言葉が「働かないでぶらぶらしている」という意味に使われているからだ。「労働」は神聖で「遊び」は罪悪である。本当にそうなのだろうか。今回は「遊び」と「労働」を追求する。

 「スポーツ」の語源は「desport(遊戯)」である。(ベルナール・ジレ「スポーツの歴史」白水社)。この「スポーツ」を日本語にそのまま訳すことができるだろうか。辞書を開いても、「運動」「体育」「競技」ぐらいしか載っていない。まして「レジャー」「バカンス」の対訳語の貧弱さは、情けないほどだ(津曲辰一郎「あそびビジネス読売新聞社)

 また、日本で「機械が遊んでいる」と言えば、ふつうは不況で機械が止まっていると考えるが、欧米の「遊び・PLAY」では活発に働いている事になる(青柳まちこ「遊びの文化人類学講談社現代新書)。つまり、日本の「遊び」がマイナスの面(休息・怠ける)を指すのに対し、欧米の「遊び」はプラスの面(動く・生き生きとする)を指すからだ。この違いはどこからくるのか。それは冒頭で述べたように、日本に「労働」が神聖で「遊び」が罪悪の思想があり、欧米では反対に、「遊び」こそが人間の究極的な目的であり「労働」は苦痛でしかないというキリスト教思想があるためだ(大河内一男「余暇のすすめ中公新書)。

 旧訳聖書において、人類の祖先アダムとイブが、禁断の実を食べたためにエデンの園という「遊び」の楽園を追い出された。人間はこの罪のために、「労働」をしなければならなかった。「労働」とは人間にとっての罰だったのだ。したがって、一週間に一回の安息日に遊ぶのは当然のことである。(日本文化デザイン会議編「遊びの再発見」紀尾井書房)。

 西洋では、「遊び」と「労働」というように対立したものの考え方(二元論)をする。東洋では、対立したものの考え方よりもすべてを丸く収める考え方(一元論)を好む(尾崎茂雄「アメリカ人と日本人講談社現代新書)。この考え方の違いが、日本の「遊び」の思想に影響を与えている。たとえば、古代日本には「神遊び」という儀式があった。これは神と人間が「遊び」を通して交流し、五穀豊饒を祈願し、健康や幸福・繁栄を感謝する。「祭り」の原点であり、「労働」「文化」「生活」の根源が「遊び」に集約されているのだ(樋口清之遊びと日本人」講談社)。

 また仏教用語に「衆生所遊楽」という言葉がある。これは、人間は遊び楽しむために生まれてきたという思想である。「遊び楽しむ」とは、どんな苦難にあっても生き生きと人生を楽しむように生きるという意味だ(「仏教哲学大辞典」)。つまり、東洋思想では「遊び」は生き方そのものであって、決して「労働」と対立するものではなかった。ここに明確な一元論が読み取れるのだ。(岩田慶治人間・遊び・自然」NHKブックス)

 やがて、日本人は西洋文化とともに、「労働」と「遊び」は対立するものだという二元論を知った。しかも「遊び」は単独行動であり、他人との和を邪魔するという考えが「遊び」の価値を低めてしまった。つまり、西洋の「二元論」で分けられた「遊び」と「労働」が、さらに東洋思想固有の「一元論」のために、「遊び」は罪悪だとの考えの元に切り捨てられてしまったのである。

 このように東洋の「遊び」観と西洋の「遊び」観は本質的に違う。現代の「遊び」観は、主に「労働」から逃げるための「西洋的な遊び」観である。しかし、現代日本人に望まれる本当の「遊び」とは、流行に乗って商品化されたトレンディーな「遊び」ではなく、自分の人生を生かすための「東洋的な遊び」だと思うのである。


追記

この ( 異文化文献録 ) のシリーズは、 20 年近く前にあるタブロイド紙で連載したコラムである。これは、僕の文章スタイルの原点でもある。引用文と地の文が明確でないし、ネット・メディアとはあまり関係ないと思われるかもしれない。だが、メディアは現代文化のひとつの様相であり、文献をつないで現代日本人を探る姿勢は変わらない。自分のデータベースとしては、このシリーズを載せないでは中途半端だと思っている
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