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素人だから言えることもある

宇宙の創り方(異文化文献録)

 帰りが遅くなって、満天の星空の中に自分がいることにふと気がついたとき、君たちはどんなことを考えるだろう。大宇宙の中のちっぽけな自分だろうか。地球に生まれ合わせた不思議さだろうか。人間はどこ(生前)から来てどこ(死後)へ行くのか。謎は深まるばかりである。「宇宙」の「宇」は「上下四方」の広大無辺な空間を表す。「宙」は「古往近来」の無限の時間を表す(新村出編「広辞苑岩波書店)。今回は「宇宙」の不思議を考えてみよう。

 約2500年前、ギリシャのピュタゴラスは、太陽や月が決まった時間に昇ったり、季節が正確に暦どおりに変化するのを見て、宇宙は決まった秩序で成り立っていると考えた。ギリシャ語の「コスモス=宇宙」は、本来「美しく整理された状態=秩序」という意味で、この「美しい」が花の「コスモス」の語源となった。(村上陽一郎宇宙像の変遷講談社学術文庫)。

 この「コスモス」が、やがて旧約聖書に結びつく。整然と決まったように動く星の運行も、四季の変化も人間には想像もできない力が働いているのではないか。こう考えるのも無理はない。宇宙の広大さの中で、あまりに人間の力が微力だからである。僕は妄想をたくましくしてこう考えることにした。「コスモス」とは《電波のようなもの》に例えることができる。つまり、大宇宙の向こうに神がいて、《電波》で太陽や月、果ては人間までコントロールしているのだ。いわば、ラジコンで動くロボットのように。全知全能の神はこの宇宙を造った創造主である。決してこの《電波》によって左右されることはないのだ。宇宙を表す言葉に「ユニバース」がある。他に「万物」「森羅万象(この宇宙に存在するあらゆる事物、あらゆる現象のこと)」などの意味もあるが、語源はラテン語で「一なるもの」。つまり、あらゆる現象や物事は、すべてただ一人(?)の神によって造られたものという考え方である。したがって、神は気まぐれや偶然でなく、すべて計画的な行為なのだという(赤祖父哲二「英語イメージ辞典」三省堂)。

 東洋の神は、もう少し人間的だ。「古事記」を読めばわかるが、神だって生まれたり、排泄したり、体を洗ったり、死んだりするのだ。神は神なりの秩序にしたがって生きているのである。つまり、アジアの「コスモス=《電波》」は誰が発するものでもない。宇宙それ自身がもつ秩序なのである(次田真幸訳「古事記(上)」講談社学術文庫)。

 仏教用語に「世界」という言葉がある。「世界」の「世」は、「あの世・この世」などと呼ばれるごとく、人間の一生を基準にした時間のことである。これには、過去・現在・未来(過去世・現世・来世)の三世がある。「界」とは「その上下四方」すなわち宇宙空間のことである。また、現象世界のすべてを三千世間とも呼ぶ。仏教では、この現象世界のすべて(三千)が個人の生命(一念)にそなわると説いている。つまり、宇宙も人間も同じコスモスで出来ているから、個人の一念によって宇宙を動かすことが出来ると説くのである。(岩田慶治杉浦康平アジアの宇宙観」講談社)。

 これを「コスモス=《電波》」で考えてみよう。人間には宇宙からの《電波》をうける受信器がある。実はこの受信器、同時に送信器なのである。したがって人間からも宇宙に向かって《電波》を送ることができるのだ。これが仏教の「祈り」なのである。宇宙というとおおげさかもしれないが、自分の心持ち次第で環境もずいぶん変わるものだ。これを純粋に宇宙のコスモスのリズムに高めれば、自分の幸福も宇宙大に変わると説くのである。

 宇宙科学の発達は、ややもすれば人間を忘れがちになる。しかし、人間(ミクロコスモス)と宇宙(マクロコスモス)の関係の不思議さは宗教を抜きには考えられないのである。


追記

この ( 異文化文献録 ) のシリーズは、 20 年近く前にあるタブロイド紙で連載したコラムである。これは、僕の文章スタイルの原点でもある。引用文と地の文が明確でないし、ネット・メディアとはあまり関係ないと思われるかもしれない。だが、メディアは現代文化のひとつの様相であり、文献をつないで現代日本人を探る姿勢は変わらない。自分のデータベースとしては、このシリーズを載せないでは中途半端だと思っている
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