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素人だから言えることもある

家内安全・家外安全(異文化文献録)

 イギリス民話三匹のこぶた」(福音館書店版)は、わらの家・木の家・レンガ(石)の家を造った子豚の物語だ。わらの家や木の家を吹き飛ばす「狼の息」は、自然や犯罪の脅威ととらえることができる。すると日本の「木と紙で出来た家」は、西洋の「レンガで出来た家」に比べて大変安全性が低いということになる。日本人はなぜこのような住まいを作ったのだろうか。今回は家を通して「安全」とは何かを考えて見る。

 まずドアの開く向きを考えてみよう。欧米のドアのほとんどは内開きなのに対して、日本のドアの多くは外開きだ。日本人は玄関で靴を脱ぐため、内開きのようにスペースをとるドアでは、中の靴を片方に寄せてしまう。さらに団地などでは、法令により強制的に外開きのドアにされている。つまり、いざという時に逃げやすくするためである(渡辺竹信「住まい方の演出中公新書)。

 それでは内開きのドアのメリットは何か。例えば、ギャング映画を考えてみよう。彼らは相手を襲うとき、ドアの錠を銃で撃ち壊してからドアを蹴破る。その時に中にバリケードを築けば、ドアを開けることは不可能だ。もし外開きのドアであれば、錠を壊したときに勝負はついている。中からノブを引っ張るしか手はないからだ(谷川正己「建築の発想」朝日選書)。欧米では家は「安全」な避難場所であり、日本では家の外に「安全」を求めざるをえないのだ。

 これは、日本人の自然の取り組み方が影響を与えている。日本人は自分を自然の中に位置づけ、自然と対立せず自然に順応することに知恵を出してきたのである。一方、欧米人は「自然」と対立し、「自然」を征服しようとしてきた。従って、彼らにとって家の外は危険地帯なのだ(樋口清之自然と日本人」講談社)

 欧米人は、「家内安全」に心を砕いたが、日本人が心を砕いたのは、近隣の人たちとの連帯感であり、人間関係であった。災害に弱い「木と紙で出来た家」は「仮の住まい」として考え、いざとなったら「安全」に逃げられるように、「家外安全」を計ったのである。これが地域社会の安全を生み、女性一人でも夜に歩ける「家外安全」の社会を作った。

 欧米人は、「家内安全」に心を砕いたが、日本人が心を砕いたのは、近隣の人たちとの連帯感であり、人間関係であった。災害に弱い「木と紙で出来た家」は「仮の住まい」として考え、いざとなったら「安全」に逃げられるように、「家外安全」を計ったのである。これが地域社会の安全を生み、女性一人でも夜に歩ける「家外安全」の社会を作った。

 欧米人は厳しい社会環境に取り巻かれているため、「安全」の大切さを知っている。いくら「家内安全」に金をかけても、地域社会が不安であれば心の不安は取り除けない。「家内安全」の思想の根底には「人間不信」があるからだ。

 最近の日本人は傲慢になってきたようだ。地域の「家外安全」に慣れ切ったため、「安全」の価値がわからなくなってきたのだ。ちょっとばかりの防犯で、これで大丈夫とばかり、地域社会に顔を出さず協力もしない。しかし欧米の例でも見る通り、日本の「家内安全」は三流である。それを補っているのは地域の「家外安全」なのだ。顔のない人間では連帯感や人間関係を築けない。それでは「家外安全」は到底保たれないのである。

 「世界平和」は、遠くにあるのではない。まず地元の「家外安全」を保ってこそ、「世界平和」の一歩となるのではないだろうか。


追記

この ( 異文化文献録 ) のシリーズは、 20 年近く前にあるタブロイド紙で連載したコラムである。これは、僕の文章スタイルの原点でもある。引用文と地の文が明確でないし、ネット・メディアとはあまり関係ないと思われるかもしれない。だが、メディアは現代文化のひとつの様相であり、文献をつないで現代日本人を探る姿勢は変わらない。自分のデータベースとしては、このシリーズを載せないでは中途半端だと思っている
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