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素人だから言えることもある

ケータイホームレス・さまよえる日本人論(2)

日本沈没」とさまよえる日本人

最近、昭和30年代をテーマにした「ALWAYS三丁目の夕日」がヒットした。団塊の世代が自分の子供時代を懐かしむ姿が映画館の中で見られた。そこには、彼らの「ホーム」があった。登場人物が戦争の影を引きずっていたのが印象的だった。昭和34年と言えば、終戦後14年しかたっていないのだ。その中で、「さまよえる日本人」をテーマにしようと小説を書いた作家がいた。「日本沈没」の小松左京である。小松氏は、
そもそも昭和48年(1973年)に出版された『日本沈没』第一部を書きはじめたのは、昭和39年(1964年)、東京オリンピックの年だった。悲惨な敗戦から20年もたっていないのに、高度成長で浮かれていた日本に対して、このままでいいのか、ついこの間まで、「本土決戦」「一億玉砕」で国土も失いみんな死ぬ覚悟をしていた日本人が、戦争がなかったかのように、「世界の日本」として通用するのか、という思いが強かった。そこで、「国」を失ったかもしれない日本人を、「フィクション」の中でそのような危機にもう一度直面させてみよう。そして、日本人とは何か、日本とはどんな国なのかを、じっくりと考えてみよう、という思いで、『日本沈没』を書きはじめたのである。(小松左京・谷甲州著「日本沈没 第二部」小学館・あとがきより)
そして小松氏の思いを謎の男「渡老人」にこう語らせている。
「日本人はな……これから苦労するよ……。この四つの島があるかぎり……帰る“家”があり、ふるさとがあり、次から次へと弟妹を生み、自分と同じようにいつくしみ、あやし、育ててくれている、おふくろがいたのじゃからな。……だが、世界の中には、こんな幸福な、温かい家を持ちつづけた国民は、そう多くない。何千年の歴史を通じて、流亡を続け、辛酸をなめ、故郷故地なしで、生きていかなければならなかった民族も山ほどおるのじゃ……。(海外に逃げずに日本に残った)あんたは……しかたがない。おふくろに惚れたのじゃからな……。だが……生きて逃れたたくさんの日本民族はな……これからが試練じゃ……家は沈み、橋は焼かれたのじゃ……。外の世界の荒波を、もう帰る島もなしに、渡っていかねばならん……。いわばこれは、日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん……。これからはな……帰る家を失った日本民族が、世界の中で、ほかの長年苦労した、海千山千の、あるいは蒙昧で何もわからん民族と立ちあって……外の世界に呑み込まれてしまい、日本民族というものは、実質的になくなってしまうか……それもええと思うよ。……それとも……未来へかけて、本当に、新しい意味での、明日の世界の“おとな民族”に大きく育っていけるか……日本民族の血と、言葉や風俗や習慣はのこっており、また、どこかに小さな“国”ぐらいつくるじゃろうが……辛酸にうちのめされて、過去の栄光にしがみついたり、失われたものに対する郷愁におぼれたり、わが身の不運を嘆いたり、世界の“冷たさ”に対する愚癡や呪詛ばかり次の世代に残す、つまらん民族になりさがるか……これからが賭けじゃな……。」(小松左京著「日本沈没・下」光文社文庫
「日本人は本当の苦労を知らない。海外で失敗しても日本に帰れば何とかなると思っている。」そういう思いが、小松左京に「日本沈没」を書かせたのだろうか。「日本沈没」のホームは日本列島そのものだった。しかし、「日本沈没」で描かれたのは書きたかった「さまよえる日本人」ではなくて、その直前までだった。35年後、ようやく「第二部」で完成する。

「ホーム」の大切さは、なくしてから初めて気づく。日本が沈没しなくても、ホーム(帰る家)レスが増えてい。

さまよえるオランダ人」と「さまよえる日本人」

「さまよえる日本人」とは、もちろん、歌劇「さまよえるオランダ人」のパクリだが、「さまよえるオランダ人」とは
  さて、「さまよえるオランダ人Flying Dutchman)」です。Flying Dutchmanは本来「幽霊船」という意味です。このDutchmanはオランダ人ではなくてオランダ船のことで、飛ぶように早く走るオランダ船=幽霊船というわけです。この船は風上に向かって進むところを、時には文字通り空を飛んでいるところを目撃されたと言います。この船を見ると災いが起こるとされていますが、伝説の元はイギリスですから、海上でオランダ船に遭遇したイギリスの船乗りの恐怖心がこんな伝説につながったのだと思います。

(中略)

「さまよう」ということは安息の地がないということです。依って立つべき秩序がないということです。どこにいても同じだということです。彼にとって場所など意味を持たない。荒れ狂う大海原に船を走らせても、噴火している火山の天辺に立っても、戦場のど真ん中に突っ立ったとしても、彼は死なないのですから。どこにいても同じということは、行くべき場所も帰るべき場所もないということです。(さまよえるオランダ人

それなら「安息の地」とは何か。「ホーム」とは何か。

今年「バベル」という映画があった。僕は「バベル」と「スパイダーマン3」の2つのダークサイドというエントリーでイニャリトゥ監督の言葉を引用した。

  撮影を進めるうちに、本当の境界線は言葉ではなく、私たち自身の中にあると気づいた。人を幸せにするものは国によって違うけれど、惨めにするものは、文化、人種、言語、貧富を超えて、みんな同じだ。人間の大きな悲劇は、愛し合いされる能力に欠けていること。愛こそが、すべての人間の生と死に意味を与えるものなのに。

(中略)

一番よかったのは、人を隔てる壁についての映画を撮り始めたのに、人と人を結びつけるものについての映画に変わったことだ。つまり、愛と痛みについての映画だ」(映画「バベル」プログラムより)

  つまり、「ホーム」とは人間同士を結びつける場所と言うことである。ケータイはコミュニケーションツールである。人間と人間をつなぐのが本来の目的だ。ところが、ケータイは安息の地になりうるか。 「ケータイをもったサル」(正高信男著・中公新書)にこんな文章がある。
  ケータイを使い出すと、常に身につけていないとどうも不安な気分に陥ってくる。「常につながっていないと気が休まらない」という感覚——それは、私たちがコミュニケーションの媒体を共有という事実にもとづいて、集団としての連帯を確認するようになってきたことを示唆している。

(中略)

メル友と交信する若者は、対面場面で伝えにくいことでも、メールなら可能と言い、顔を合わせて会話する方がかえって疲れてつらいとこぼす。しかし、人間ひとりひとりの存在は、いつまでたっても時間と空間の拘束を免れることはない。 しかもすでにふれたように、個々人は公的世界へ出て他者との交渉のなかではじめて自己実現を遂げるのである以上、空間上の近接性と時間上の持続性を欠いたコミュニケーションというものには、おのずと限界が生じてくるのである。その問題がもっとも先鋭的な形で浮上してくるのが、「相手とどのようにして信頼関係を結んだらいいのか」という「疑念」なのだと言えよう。どこにいるのか確かでない相手との、瞬間瞬間の交渉のなかで、いかにして信じ合えばよいのか、見きわめる術を見出せないでいる。(「ケータイを持ったサル」正高信男著・中公新書

  前項「ケータイという〇・五のメディア」で書いたように、ケータイは人間の代 わりにはなりえない。「ホーム」は人間同士の葛藤が会って初めて成り立つものだからである。「ホーム」がなくなれば、新たな「ホーム」を作ればいい。ケータイは道具であるのに、いつのまにかケータイに使われている環境になっていないか。
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