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素人だから言えることもある

隠居を見直す時代

かつて、学校は教会から生まれた。

英語 school(スクール)の語源は古代ギリシャ語で、schole(スコレー、暇)。古代ギリシアや古代ローマの「市民」(市民権をもつ男。裕福で、労働は奴隷がおこなう)が、音楽や芝居、議論を楽しんだり、スポーツを嗜んだりする暇な時間、そしてその暇つぶしの場所から由来し、ラテン語でそれをschola(スコラ)と訳したのが直接の語源になる。scholaは、「学院、僧院」の意味で、思想史では「スコラ学」(僧院哲学、スコラ哲学)の名前で出てくる。実際には、スコラはキリスト教の教義の研究や教育に専念する修道士たちの生活と研究の場であった僧院のこと。(学校Wiki)
病院も教会から生まれた。
日本で最初の病院と言われているのは、1557年に医師でもあったポルトガルの宣教師ルイス・デ・アルメイダによって大分県に開設されたものであると言われ、外科、内科、ハンセン氏病科を備えていた。これが西洋医学が初めて導入された場所とも言われている。海外においては、キリスト教の修道女・修道士が神に仕えるために病人を集めて日常生活上の世話をしたのが始まりとされ、看護活動の原点でもある。(病院Wiki)
ちなみに、Educate(教育)の語源が、引き出すなのは
かつて学校は教会が兼ねており、母なる教会が子を分娩し、その嬰児を引っ張り出すという、母体のイメージが基になった。(赤祖父哲二「英語イメージ辞典」三省堂)
当然、教会が病院を兼ねており、いわば出産・教育・結婚式・病院・葬式と人々が教会と離れられなかった点を見過ごすことはできない。つまり、キリスト教が欧米で広まった理由は、このような面が強いと思われる。

日本においても江戸時代、寺子屋が生まれ、寺の僧侶を中心に子供たちを教えたのも一番知識を持っているのが僧侶だったからだ。現在では、僧侶の地位が相対的に落ち、生臭坊主ばかりになったり、葬式仏教と呼ばれたりで、かつての面影もないが。

僧侶の次に知識を持っていたのは、ご隠居だった。ご隠居というと、引退のイメージが強いが、いわゆる「第二の人生」のことである。野口悠紀雄氏は、(「超」リタイア術/豊かな老後のための「超」リタイア法/新潮社)の中で

日本では、伊能忠敬だ。少年時代に商家の伊能家に養子入りし、傾きかけていた家業を再興した。そして、隠居後数えで50歳を過ぎてから江戸に出て、西洋数学、西洋天文学、天体観測学、暦学を学んだ。55歳から71歳の間に、7年にわたる全国測量を行ない、「大日本沿海與地全図」を完成させた。この当時、40歳半ばでの隠居が普通だったから、忠敬はまさしく充実した「リタイア後人生」を生きたわけである。彼も、少年時代から計算や天体観測に興味を持っていた。第2の人生においてその夢を実現したわけだ。

松尾芭蕉は36歳で隠居になった(それまでは、江戸幕府の水道監理技師)。そして50歳で死ぬまで全国を歩いた。『好色一代男』の作者井原西鶴は、33歳で剃髪して隠居になった。そして、40歳をすぎてから浮世草子を書きはじめた。

「浪人」という名の隠居もいた。江戸後期からは、免官されて止むをえず浪人になった人ばかりでなく、自ら望んで浪人になった人もいた。「エレキテル」で有名な平賀源内も、そのひとりである。

隠居は、社会からの厄介払いではなかった。伊能忠敬、芭蕉、西鶴のように、自分が本当にやりたいことを実現するために積極的に隠居するという人が多かった。そこまでゆかなくても、「道楽」に打ち込むことは普通だった。

また、隠居が地域社会の中で重要な役割を果たしたことも間違いない。人と人との橋渡し役を務めたり、トラブルがあれば解決策を出したりと、地域共同体の世話役として積極的な働きをしていた。落語に出てくる「ご隠居さん」のイメージは、まさにこうしたものだ。

人生50年とうたわれた、短命の時代でも「隠居」を楽しんだ人たちがいた。ましてや、世界一の長寿・日本である。「隠居」はまさに積極的な第二の人生への出発点なのだ。子供時代、夢を持っていてもなかなかかなえられなかったし、さらに学校で学んだこともほとんど活用できなかった。でも、これからは自分の思い通りの人生を生きることができる。だから中高年諸君、目覚めよ、これからは君たちの時代だ。
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