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素人だから言えることもある

ゲームと殺人〜土浦の8人殺傷事件に思う

 「仮想の垣根」超越か 無差別殺傷の金川容疑者(MSNサンケイ3/24)

 金川容疑者の部屋にはゲームソフトが山積みになっていた。23日、8人を殺傷して警察に逮捕された際に抱えていたリュックサックに「ニンジャガイデン ドラゴンソード」というゲームソフトをしのばせていた。剣などで相手を倒しながら進んでいくゲームだ。

 「ゲームソフトは宝物だったのだろう。(敵を倒しながら進むというストーリーに)夢中になり、ゲームの主人公に成りきって、バーチャルと現実の垣根を越えてしまったのではないか」。福島章上智大名誉教授(犯罪心理学)は、犯行の背景にゲームがある可能性を指摘する。

 23日の事件は、かつての宮崎事件を思い出した。しかし、彼は幼女にこだわっていたが、今回は誰でも良かったという。しかし、この論調ではゲームが悪い、犯人の心情は理解できないで終わってしまっている。しかし、単純にゲームの責任にしてよいのだろうか。

 WIRED VISIONにこんな記事が載っていた。
ゲーマーにとって自分の死は快感」研究を考える

 こんな説がある。こうした「死」の体験が、ゲーム経験のなかでも、ゲーマー自身にとっては最も楽しいものだったかもしれない、というのだ。

 このような非常に興味深い議論が、プレイ中のゲーマーの感情について先駆的な調査を行った科学者、Niklas Ravaja氏の新しい論文で展開されている。この論文は「ジェームズ・ボンドの精神生理:暴力的なビデオゲームでの出来事に対する一過性情緒反応」というタイトルで、『Emotion』誌の2月号に発表された。

 この論文のなかでRavaja氏が達した結論は、あまりに直感に反していて驚かされる。ゲーマーたちは敵を射つことが好きなのではなく、自分自身が射殺されたときに喜びに満たされるというのだ。

(中略)

 さて、実験の結果はどうなっただろう? 敵をやっつけたとき、被験者の筋電図活動は急上昇したものの、顔の表情は悲しみとして記録された。

 「これは、勝利と成功が喜びをもたらすのではなく、敵を傷つけ、殺してしまうことが苦悩あるいは怒り、またはその両方を引き出すということだ」とRavajas氏は説明している。反対に、ゲーマー自身が殺されたときは、センサーが「肯定的な反応を示す、非常に興奮した感情」を検出した。

 つまり、ゲームの中で死ぬことは、ある意味、楽しい経験だというのだ。
Ravajas氏は、ゲーマーたちがこのように感じる理由について、確信はしていないものの、独自の理論を展開している。人間がゲーム内の敵を殺すときに苦悩を感じるとしたら、それは心に植えつけられたモラルに背いた行為だからだというのだ

 つまり、人間は、たとえそれが仮想世界の中であっても、人殺しが悪いことだと認識しているということだ(興味深いことに、この主張は「脱感作の理論」と相反するものだ。仮想上の敵を殺しすぎると暴力に対する感覚が麻痺する、と心理学者らは懸念している。ゲーマーたちがこの感覚の麻痺に抵抗していると思われることに、Ravajas氏は「安心した」と述べている)。

 しかし、Ravajas氏の実験結果でさらに奇妙なのは、ゲーム内で自分が死ぬことに興奮を覚えるというところだ。同氏はこの原因を、殺されることが「ゲームへの没入から一時的に開放されること」を意味するからだ、と考えている。一人称シューティング・ゲームのプレイヤーは、非常に緊張した状態にいるので、たとえ自分の身体が粉々に吹き飛ばされたとしても、一時休止できることに喜びを感じるというのだ。

 これは、冒頭の心理学者の説とは、まったく逆の論理である。普通、対戦ゲームで戦うのは相手を倒し、勝ち抜くことにカタルシスを感じると思っていた。しかし、殺すことに罪悪感を感じるとするならばゲームへ没入することは自らが暴力に麻痺することを恐れていることを意味する。それなら、なぜ何度も対戦ゲームで戦うのか。それは、自らが殺されることにカタルシスを感じるからだ

 思えば、かつてこのような連続殺人の犯罪者たちの多くは、自分の生にあまり拘泥していなかった。むしろ、自ら死ぬことを望んでいた。死刑を嘆願した受刑者もいた。彼らは自殺する勇気がないので、他人を道連れにしてきたのだ。そのため、被害者たちは、犯人の心情は永久に理解できないだろう。でも、ゲームがその犯罪を引き起こしたという結論では、ゲームを遠ざけるだけしかできないし、あまりにもその人間を単純化して考えているだけなのではないだろうか。
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