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素人だから言えることもある

日本人はテレビを捨てられるか

「2011年テレビ滅亡論」の自己分析

 前項「2011年テレビ滅亡論」の発端は、小寺信良氏の「アナログ放送をやめたフィンランド人がテレビを大量に捨てる」という池田信夫氏のブログ「地デジの非常識」からであった。(なお、小寺氏は、MIAUアンケートとフィンランド事情でその情報のフォローをしている。)

まず、最初に「アナログ表示」を持ってきたのは、その後に展開する日本と英国の「デジタル放送への切り替え方式」の違いを強調するためである。

TASPOといい、後期医療者制度といい、地デジといい、日本の官僚を含めたお上の考えることを国民に知らしめる方法の強引さは、社会主義体制と変わらない。もちろん、何年かの広報期間はあり、それなりに浸透していたかもしれないが、末端まで浸透しているとは言いにくい。「アナログ表示」のような「ゴリ押し」システムがそれを象徴している。これは、国民の怒りを呼び起こすのではないだろうか。

と、書いてきて、疑問を持ったのは、果たして、日本でもそのような「テレビを捨てる」ことなんてできるのかということだ。

日本人はパラダイス鎖国から逃れることができるのか

 地デジが生まれた本当の理由(読者ブログ版) で書いたように、「ハイビジョン」は日本だけのNHK製の商標である。NHKがアナログハイビジョンをアメリカに売り込まなかったら、このような世界中を賑わす地デジ騒動にはならなかったのだ。一方で、日本がハイビジョン先進国にならなければ、どこの国がハイビジョンを普及させようと考えるだろうか。結局、国民は、日本製の家電メーカーの宣伝のお先棒を担がされたわけだが、それでもハイビジョンを持ちたいという国民性がそこにある。このモノにこだわる国民性が日本の唯一の特徴なのである。

 思えば、小松左京の「日本沈没」で渡老人が語った言葉、

 「日本人はな……これから苦労するよ……。この四つの島があるかぎり……帰る“家”があり、ふるさとがあり、次から次へと弟妹を生み、自分と同じようにいつくしみ、あやし、育ててくれている、おふくろがいたのじゃからな。

……だが、世界の中には、こんな幸福な、温かい家を持ちつづけた国民は、そう多くない。何千年の歴史を通じて、流亡を続け、辛酸をなめ、故郷故地なしで、生きていかなければならなかった民族も山ほどおるのじゃ……。

(海外に逃げずに日本に残った)あんたは……しかたがない。おふくろに惚れたのじゃからな……。だが……生きて逃れたたくさんの日本民族はな……これからが試練じゃ……家は沈み、橋は焼かれたのじゃ……。外の世界の荒波を、もう帰る島もなしに、渡っていかねばならん……。

いわばこれは、日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん……。これからはな……帰る家を失った日本民族が、世界の中で、ほかの長年苦労した、海千山千の、あるいは蒙昧で何もわからん民族と立ちあって……外の世界に呑み込まれてしまい、日本民族というものは、実質的になくなってしまうか……それもええと思うよ。

……それとも……未来へかけて、本当に、新しい意味での、明日の世界の“おとな民族”に大きく育っていけるか……日本民族の血と、言葉や風俗や習慣はのこっており、また、どこかに小さな“国”ぐらいつくるじゃろうが

……辛酸にうちのめされて、過去の栄光にしがみついたり、失われたものに対する郷愁におぼれたり、わが身の不運を嘆いたり、世界の“冷たさ”に対する愚癡や呪詛ばかり次の世代に残す、つまらん民族になりさがるか……これからが賭けじゃな……。」(小松左京著「日本沈没・下」光文社文庫)

現在の日本がパラダイス鎖国であり、その鎖国から逃れることは、ある意味、日本沈没と似ている。文句を言いながらも、政府の言うことを唯々諾々としているところも、このパラダイス鎖国にしがみついているからである。テレビ産業がパラダイス鎖国であるのも、この日本の縮図であるからだ。しかし、日本人はテレビという過去を捨てられないだろう。かつての日本の栄光がそこにあるから。
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