夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

究極のデジタルテレビ

究極のクイズ番組

 前項「デジタル化は避けられなかったのか」を考えた時、デジタルテレビの究極な姿を思いついた。もともと、「放送=送りっぱなし」であった、一方的な伝達システムがインタラクティブになることである。受身で見ていた視聴者が積極的にテレビに参加できるようになる。現在は電話回線を通じた参加だが、そのうちテレビリモコンかキーボード、ボイスチャットなどで参加が可能になるだろう。ただ、現在のように1対多数ではとても対応できないので、それぞれのテレビにバーチャルなキャラクターが、視聴者一人ひとりの質問に答えることが可能になる。これはグーグルの検索がユーザー一人ひとりの検索に対応するようなもので、それをテレビ的に進化すれば、こういう形になる。つまり、究極的なインタラクティブな番組とは、視聴者一人一人に対応したそれぞれの番組が出来る。

究極の検索

 現在、グーグルは膨大な情報を集めている。パソコンやケータイからテレビにも進出するだろう。これらの情報を活用することが出来るのは、その個人個人が何を検索してきたかの履歴によって、その個人が何を求めているかを直ちに対応することである。これこそが、その個人にフィットした検索であり、まさにかゆいところに手が届く検索である。そして、グーグルは次に、記憶を扱うようになるだろう。
 ぼくは、「グーグルライブラリーに目指して欲しい「brain library」」で、
 それほど世界中のありとあらゆるデータに興味があるなら、僕はその膨大なデータによってグーグルが作り上げて欲しいのは、ひとつは「Second Earth(もしGoogleが発売するとすれば) 」、そしてもうひとつは究極の図書館、「brain library」である。別に脳髄が陳列してあるわけではない。それは僕のひとつの夢だが、過去の著名人の脳の記憶を知りたいと思ったのだ。もちろん、それは不可能かもしれない。たとえば、天才ダ・ヴィンチの目にしたものとか、宮沢賢治が花巻で見た光景とか、学術的ではなく、彼らの人生を映像として体験したい、どう感じたかを感覚的に知りたいというライブラリー「頭脳図書館brain library」があれば、いつでもその時代に戻ることができるし、その感覚を共有することができる。
 これは、過去の人の記憶の話だが、現在生きている人の記憶のほうがもっと簡単に出来そうだ。何年もグーグルで検索していけば、その人の記憶の傾向がわかってくる。そうすると、どこの記憶を忘れているのかも見えてくるはずだからである。

究極のニュース

 人間は、膨大なニュースに取り囲まれると、どれが一番重要なのかわからなくなってくる。ぼくは、「ねつ造の心理?退屈が怖い」でこんな言葉を引用した。
岩波ジュニア選書「テレビとのつきあい方」(佐藤二雄著)でアメリカのジャーナリスト・ディヴィッド・ハルバースタム氏の言葉を紹介している。

(1) 「いまや、アメリカのテレビニュースで絶対に避けなければならないのは、間違っていることでもない、不正確なことでもない、それは視聴者を退屈させることだ」

(2) 「テレビは、話の中身はなくとも映像がよければよい。逆に、話の内容がどんなに大切でも、映像にインパクトがなければだめである」

(3) 「ニュースのひとつひとつはとても重要で、本来それを説明するのに1分30秒では短すぎるし、また、正味30分のニュース時間の総枠では何も報道できない」(佐藤二雄著「テレビとのつきあい方」岩波ジュニア選書)

 よくあるニュースのパターンは羅列的に並べて報道するものだ。しかし、これでは最後の数分は覚えているが、最初のほうは全く忘れているなんてこともあるし、重要でないのに映像だけが残って離れないなんてこともある。インタラクティブなニュースは、これを視聴者の感覚にあわせて重要度のナンバーをつけてくれる。関心がなければ見なくてもよいし、見たいシーンは保存できる。もっとも、これでは本来のニュースの重要さとは無関係になり、社会的な話題に乗り遅れることになってしまうが。
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