夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

ジャーナリズム幻想論

祭りのあと

 北京オリンピックが終わった。閉会式の演出も開会式の演出と同じく、チャン・イーモウ監督であるという。チャン・イーモウといえば、「HERO」や「LOVERS」でワイヤーアクションを多用している。オリンピックの開会式や閉会式の演出でも、ワイヤーアクションを使い、リアル世界がそのままヴァーチャル世界かのように思えてくる。

一部、演出上の虚偽(口パク・足跡のCG・少数民族のうそ)などはあったが、チャン・イーモウが映画監督であることを考えれば、その程度は許されると思っているだろう。なぜなら、彼は真実を追究するドキュメンタリー作家ではなく、ストーリーテラーだからだ。いかに、観客を幻想の世界に導くかだけを考えればいいと、中国政府はそう考え、彼に演出を依頼したのだ。

 その意味では、オリンピックは、中国政府の考えた幻想のひとつだったのかもしれない。いかに、中国はここまで民主化され、中国人民は紳士的で外国人に優しいと。世界からのメディアに対してのひとつのメッセージであったのだろう。

いわば、オリンピックという期間限定のディズニーランド(もちろん、石景山遊楽園という悪例はあるが)であり、世界に対する観光見本市であった。ところが、政府の意向とは違って、メディアは中国の隠したいものを狙ってくる。そのため、中国政府は、たびたび外国メディアに対して警告をしたという。いかに外面をよくしても、人間はそんなには変わらない。力で抑えたものが、オリンピック後に噴出する可能性は否定できない。「おとなしくしてなさいよ」といわれて、じっとしていても、お客さんが帰ってしまえば、またワルガキにもどるように。

日本は中国を笑えるか

 人権とか民主的とかいうものは、外国から見るとよく見える。ところが、自分の国内ではどうか。「日本にジャーナリズムが育たない理由」で語ったのは、一見、ジャーナリズムがあるように見えて、実は、政府や企業にとって、都合のよいニュースだけしか流れないシステムである。中国が、人権や民主化について、本当に理解しているのかと思う国民も多いが、日本国内ではそれが保たれるというのは幻想ではないのか。そもそも、その規制を政府に頼ろうとする姿勢こそが、問題ではないのか。

 ぼくは、「耕す文化」と「種まき文化」(異文化文献録) で、

日本人は、いつも思想は外からくるものだと思っている」(司馬遼太郎「この国のかたち」文芸春秋社)。この「思想」を「文化」に換えても納得がいく。「独創的な文明は、日本よりも外国で作られる可能性が大きいから、それを取り入れる方が能率的だ。中国に儒教があれば儒教をもってくる。インドに仏教があればそれをもってくる。ヨーロッパに科学技術があればそれを持ってくる。これが一番よいやり方だと考えた」(梅原猛「日本文化論」講談社学術文庫
 日本は、民衆の間から、革命が起こったことはない。時の権力が転覆しても、新たな権力に変わるだけだ。敗戦で、180度方向が変わっても、「鬼畜米英」と叫んでいた国民が、数年後には、墨塗り教科書で「人権」や「民主化」を学ぶ。絶えず、海外からの風にのることはうまいが、本当に理解したとは思えないのだ

「個人主義」と「利己主義」の区別がつかない国民に、ジャーナリズムの大切さをどうやって教えるというのだろう。まず、自分たちの権利の大切さを学ぶことが必要なのではないか。
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