夢幻∞大のドリーミングメディア

素人だから言えることもある

形のないものに金を払えるか

パッケージからネットへ

 森祐治氏の「ネット発の経済価値を具現化せよ」は、インターネットのマネタライズ化に対して、さまざまなイメージを想起させてくれる。

 それは今までのコンテンツがパッケージを前提に作られてきたことだ。新聞には、記者のほかに印刷、広告、チラシ、新聞用紙、地域の新聞販売店。新聞を売るために、様々な人間が働き、収益を得ている。また、テレビにしても、番組単体で放送に乗せるためには電波を許可されているテレビ局が必要であり、芸能人、マネージャー、音響スタッフ、制作会社…これまた膨大なスタッフが関係している。CDやDVDについても、パッケージするために封入物の印刷、パッケージデザインのための画家、CD製造会社、広告キャンペーンのスタッフ、輸送会社、ショップの店員…など。私たちは、それぞれのコンテンツを楽しむために、彼らの生活費を払っているのである。

 新聞にしても、書籍にしても、DVDにしても、テレビにしても。コンテンツ単独で扱われたことはなかった。インターネットは、(コンテンツ制作のための膨大な人件費は別として)それを可能にした。デジタルコンテンツになれば、かなりのコスト削減は可能である。「ネット発の経済価値を具現化せよ」によれば、クリエイターに払われる費用は、販売価格のうち書籍の場合は10%、テレビの場合は(スポンサーが番組の支払った金額の)8.6%だという。販売価格は下がり、クリエイターの収入はあがる可能性はあるのだ。

貧者の流通革命

 当然ながら、デジタルコンテンツになれば、それに付随した産業のほとんどが立ち行かなくなる。それは、「パッケージメディアの終焉」で見たとおりだ。100ドルパソコンのネグロポンテ氏はこういっている。
次の10年では、パッケージメディアはほとんど終焉を迎えるだろう、とネグロポンテ所長はいう。

メディア・ラボで、学生にメディアとはなにか、と尋ねると、「(1)ゲームであり、(2)テレビである」と答えるという。いずれも画面のなかで完結するものなのだ。

たしかに、すでに、MP3やNapsterに代表される音楽交換技術が、CDの売り上げを脅かした例が示すように、今後、高速な回線やデータベース、ピア・ツー・ピアなシステムなどが成長し続けていけば、パッケージメディアの占める余地というのは、たいへん小さいものになっていくだろう。10年という視野で見れば、パッケージメディアの終焉はほとんど間違いない「既定の事実」のように思われる。(【レポート】Beyond Being Digital -ニコラス・ネグロポンテ-(2) )

 形のあるパッケージメディアでは、クリエイターでなくても、収入を得ることはできた。形のないデジタルコンテンツは、誰でもがクリエイターになる可能性が増え、競争相手が膨大に増えるために、パッケージメディアほど収益は上がらず、まして付随産業は育たないだろう。

 一方、パッケージメディアは、細々とコレクターに買われることで、むしろ高価なものになっていくに違いない。形のあるものは高く、形のないものは安くなるという二極化が進むのだ。この流通革命は、「形のないものでもコンテンツは価値がある」という消費者に意識改革を迫らなければマネタイズはおぼつかない。
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