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素人だから言えることもある

なぜ、考えない人間が増えてきたのか

やる気を削ぐ日本の会社

 それはひとえに企業が優秀な人材を作るシステムでなくなってしまったからだ。ただ、ただ、自分の現在の地位を存続させるためだけの会社。たとえば、ホウレンソウ”は第二の“カロウシ”になるかというブログで日本の典型的なケースを見てみよう。
それは、日本企業では従業員に『権限と責任』が与えられていないからだ

この指摘はずばり本質を突いている。職務給ではなく属人給である日本型組織においては、責任も権限も常にその存在が曖昧なのだ。たとえば僕自身、ある企画を通す際に以下のようなプロセスを延々とたどったことがある。

(1) 業者と打ち合わせ。決定権が無いので持ち帰ってプレゼン資料作成。

(2) 課長に説明「ふーん、わかった。じゃあ部長に相談して」

(3) 部長に説明「ふーん、わかった、じゃあ事業部長に(略)」

(4) 事業部長「これ、こうした方がいんじゃない?課長ともう一回相談して」((1)に戻る)

要するに、延々と社内プロセスにリソースを消費しているわけだ。ちなみにこれが非日本的組織であるなら、同じ程度の案件であれば、一般的には以下のプロセスだけで済む。

(1) 業者と打ち合わせ。その場で決定か、上司一人に報告して決定。

それだけの権限が持たされていることが前提となる。当然、結果は処遇にダイレクトに反映され、場合によってはクビにもなる。それが責任の部分だ。

(中略)

何かあったら逐一俺に報告しろ」という関係は、裏を返せば「おまえにゃ何も期待してないし、ご褒美も期待するなよ」というに等しい。

「いいじゃないかいっぱい仕事してみんなで残業すれば」なんて意見も多そうだが、無駄な仕事はなるべく減らして余裕を持たせるほうが良い。生産性を上げるとはそういうことだ。なにより、そんなカルチャーだと新兵器たるイノベーションなんて沸いてこないから、いつまでたってもコストカット一本槍で、インド人や中国人とガチンコで殴りあう羽目になる。(ホウレンソウ”は第二の“カロウシ”になるか

 この生産性を上げるための企業ではなく、会社に長時間いてそれなりの収入を上げればよい会社、いわば過去の栄光にすがりつくために、ひたすら上司の顔色をうかがう会社が存続しているのは、人間の可能性を食いつぶしているに過ぎない。

 このような状態では、社員のやる気を削ぎ、無責任で考えない人間が増殖すること請け合いである。だが、おそらく、このような状態は、日本では何年も続いていたのだろう。このような企業の実態が家庭や社会から隔絶されていたために、あまり明るみに出なかったに違いない。

企業と社会の不一致を示す食品偽装問題

ぼくは、「もったいないと食品偽装」で、
 無駄を承知で成り立っているのは、食品メーカーとて同じである。食品は季節商品である。特に、観光地の名産は、その上下の幅が大きい。作りすぎて売れないよりも、売れるはずなのに数が足らないのを恐れる。そのことはライバルメーカーの売り上げを増やすことになる。そのため、食中毒の危険もあるのに、賞味期限のラベルの貼り替えをしてしまうのだ。
そこにあるのは、消費者の感覚とメーカーの感覚のずれである。たびたび引用している工学院大学教授の畑村洋太郎氏の「失敗学」のすすめでは、
 社会が当然だと思っていることと、企業の価値観が一致していないということです。味がよければ原材料の表示が多少違っていても問題はないだろうと思う企業と、表示を偽装と判断する消費者などが例として挙げられます。
 表示を厳密にすればするほど、大量廃棄が出るし、その分価格は高くなる。消費者は高い食品より安い食品に走る。そこで安い原材料を求めたために、今回の汚染米騒動が起こったのである。

 先ほどの「もったいない」と食品偽装」で、引用した言葉がある。

消費者は目当ての品が切れていた場合、小売店に苦情を言います。

 小売店は品物があれば売れていて利益が得られるし、消費者からの苦情も避けたいので、卸業者に発注数を必ずそろえるよう求めていることが偽装を生み出したといえます。

 品切れの場合はメニューを変更して別のものを購入するようにしてはいかがでしょう。 生鮮物は加工品のように需要に合わせて作り出すことはできないのです。(食品会社偽装の歴史

 メーカーも、消費者のことを考え、消費者もメーカーのことを考える必要があるのだ。(といっても今回の汚染米問題は加工品から起きたのだが)

重要性を勘違いしているのはなぜだ

個人情報が輸出される「フラット化する世界」に、
 人事や経理といえば、社員の個人情報がなければ勤まらないところだ。それを中国に持っていくとは。当然ながら顧客情報もデータ入力のために海 外流出していることを意味しているのではないか。(もちろん情報は細分化され、無関係な中国人が入力することで、安全性が保たれるのだが、輸出していることには変わりはない)
と書いた。最も機密性が保たれるべき個人情報が、無責任な非正規社員によって扱われるのは矛盾しているのではないか。 「失敗学」のすすめでは、
 たとえば多くの企業では、パソコンのデータ入力を「ただの単純作業」だと考えているので、派遣社員やパートタイマー、あるいは外注に任せればいいとなりがちです。しかし、オペレーションを行うこと自体が、情報の伝達そのものなのです。普段は目立ちませんが、証券会社や金融機関にとっては、データ入力は「(株式などの商品を)いくらの値段で売ります」という言葉を、データにして伝達しているのですから、たいへん重要な仕事といえます。

 本来はひとつのことを行ったときに、全体にどのような影響が出るのかを考えるから、仕事に対する真剣さが出てくるのです。一方で、たとえばパソコンのデータ入力だけを請け負って、時給で作業を行っているような場合、仕事への誇りも責任感ももてなくなってしまうのではないでしょうか。

 このような仕事の分断は、派遣社員はもとより、正社員もその仕事の重要性が何であるかを理解していない証拠である。また、派遣社員の匿名性も問題であるという指摘もある。
 職場において派遣労働者が匿名化されるようになった。「日雇い派遣」は今日限りで明日は来ない。「細切れ雇用」もいつやめるかも知れない。働く現場での人と人との関係が、今日限り、ほんのわずかな期間という状況が広がっている。その期間の短さと派遣労働の特徴である間接雇用とが結合する。間接雇用とは、職場の正社員にとって、別の派遣会社の社員である派遣労働者はどこの誰だかわからないということである。現代の派遣奴隷制が若者を襲う〜人格の否定、支配的な強制労働、暴力による労務管理
 この問題は、個人情報流出問題にもつながる。責任感もない派遣社員を重要な部署であるデータ入力などを請け負わせていいのかという問題である。また、マニュアル方式で管理することに対する疑問もある。「失敗学」のすすめでは、
 マニュアルなどは、決めたとおりにやればやるほど、とんでもない失敗が起こる危険性があると思います。けっしてマニュアルが悪いのではありません。マニュアルから外れたときのことを、“縮退”した社員が想定しなくなるのが問題なのです。「マニュアルどおりにきっちりやろう」といってるうちに、人は必ず「決まったとおりやればいい」と変わってゆきます。マニュアルに書いてあることしか実施しなくなるのです。そして、マニュアルに載っていないことを考えなくなります。それがさらに進むと、マニュアルから外れている他人の行動や方法を許さなくなります。もしかしたら、マニュアルよりもっと優れた行動や方法かもしれないのに、そこまで深く考えなくなるのです。

 そうやってマニュアルは形骸化、固定化して、結局最後は「マニュアルどおりにやるのが絶対正しい」と誤解している“縮退”した社員が、大きな失敗をしてしまうのです。

 世の中はマニュアルどおり進まないのは誰でも知っている。しかし、その限られた細分された小さな分野で、たまたまマニュアルどおりにやればうまくできたからという、ただその理由だけで済ましてしまうと、マニュアルに書かれていない緊急の事態に直面したとき、人々は対応できない。ロボットのようにプログラムされていないからだ。考えるということは、そのプログラムを緊急時に対応できるように拡張することである。冒頭の例の会社のように、すべての事柄を何もなかったかのように、前例どおりに進ませるのは、結局、自分が何をしているのかわからない大勢のロボットがマニュアルどおり、忙しくうろうろしているに過ぎないのである。だが、時代は少しずつ変わりつつある。

 最近、企業の事件のリークが増えてきたのは、インターネットのブログによって匿名でリークが簡単にできる時代になり、しかも派遣社員の増大で会社の縛りが薄れてきたためではないか。受け手と隔絶されていたメディアを自分たちの手に取り戻し、ものを言い始めたためではないだろうか。こんな会社はおかしいと。そして、私たちは、少しずつ考え始めている。これから、何をすればいいのかと。
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