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素人だから言えることもある

「食の安全」の幻想

 最近、メディアの報道に対して、疑い癖がついている。昔は、母親が自分の子を殺すなんて、信じられなかった。しかし、二度、三度、続くと、子供が誘拐されたと報道されると、親が犯人になる可能性は何%なんて考える癖がついてしまった。
 また、何回か同じような事件が続かないと、単発の事件はすぐ忘れてしまう。「食の安全」なんてことも、中国の毒ギョーザ問題や、食品偽装、値上げなど立て続けに起こったから関心をもたれているのだ。数年前に起こった未履修問題などすでに忘れているだろう。今回の、汚染米・事故米も、毒ギョーザではじめて知った「メタミドホス」という農薬がついているから、思い出したのである。

 αブロガーの丸山宏氏のブログにはセキュリティの2つの考え方が載っていた。

 セキュリティについて一般に多く言われていることは、「複雑さは敵」ということです。システムが複雑化すると、守るべき要素が組み合わせ的に増えて、その結果目が行き届かなくなり安全でなくなる、という考え方です。従って、システムをネットワークに接続する際にも、できるだけアクセスを制限したほうがセキュアであるというのが、ほぼ大方の人の考え方でしょう。一方、ネットワーク効果という言葉は、別のことを示唆しています。ネットワーク効果というのは、いろいろな定義があるでしょうが、多くの場合、ネットワークに参加する人が多ければ多いほど、そのネットワークの価値が高まるというものです。ですので、「セキュリティのネットワーク効果」という命題はつまり、より多くの人がネットワークに参加すればするほど、ネットワーク全体のセキュリティは高まる、という逆説的な考え方なのです。(Global Innovation Outlook 「セキュリティと社会」
 汚染米の当事者、三笠フーズは、多くの業者を通すことで複雑になり、見つかりにくくなるという考え方であった。確かに、工業用がいつのまにか食用になったのも、受け取った業者がそれを誤解したものである。SNSであるMixiが、アクセスを制限した理由もそうであろう。後半の考え方は、より善意の第三者が多いほど犯行はしにくいというものである。ところが、今回の汚染米の場合、この善意の第三者であるはずの業者もまた、結局は、犯行に加担していたのだ。さて、このことがメディアに報道された。それに対しての政策もやがて行われるだろう。果たして、これで「食の安全」は保たれることになるか。

 リスク報道は、不安を増すから、報道なんかしないほうがいい。おそらく、風評被害をこうむったメーカーや農水省は、口には出さないが(メディアに対してそんなことを言えるわけがない)そう思っているに違いない。一方、消費者もそのことでますます不安になる。そして、政府に対して、もっと強力な「食の安全」の政策を作れと言うだろう。リスク報道がなければ、誰もそんなことに関心を持たなかったに違いない。「食の安全Wikipedia」には、

 食の「安全」という表現とともに、食の「安心」という言葉も用いられている。「安全」と「安心」の違いが学術的に明確に定義されているわけではないが、およそ以下のように言える、ともされる。

安全:具体的な危険が物理的に排除されている状態

安心:心配・不安がない主体的・主観的な心の状態

 このように定義されると、自然科学系の人間などは、つい「安心」を軽視してしまう傾向があるが、そのような態度・判断は間違っている。「安心」は重要な問題なのである。

 安心の問題が重要視されるのは、個々の人々は社会サービスに依存して暮らさざるをえない状態にあり、状態を自分でコントロールすることができず、全体状況を知ることも困難なためである。一連の不祥事によって、不安が発生している。人々の安心を得るためには、システムが安全でなければならないことは言うまでもないが、それだけでは十分ではなく、関係者からシステムが安全である、との信頼が得られていなければならない。「安心」とは安全についての信頼感である。

 この「安心」と「安全」の関係については、「安心と安全は両立しない」で、帝塚山大学心理福祉学部の中谷内一也教授の言葉を引用している。
 では、なぜ安全と安心がセットで追及されるのだろうか。それは、一方が現実の状態を表し、もう一方が心の状態を表す、別のことがらだからであり、それに加 えて、両者は必ずしも連動していないからである。もし、災害が減少し世の中が安全なものになるにつれて、人々の不安も取り除かれ安心も高くなるのであれ ば、両者をセットにする必要などない。政府や企業は単に安全だけを高めれば人々の安心がついてくるはずである。しかし、実際にはそうは行かない。だからこ そ、安全とは別に、安心も謳っているのである。政府や企業の立場では、安心という心の状態にアプローチできなければ、政策や商品への支持につながらず、安全を高めるだけで満足しているわけにはいかないのである。(中谷内一也「リスクのモノサシ」NHKブックス)
そして、
 「安全・安心生活はありうるか」、いいかえれば(リスク情報によって)安全・安心生活を築くことはできるか。私の回答は、できない、となる。リスク情報は将来の安全を高めるのに貢献するが、現時点の不安を高めるものである。しかも、今後、さまざまな分野でリスクの考え方に基づいた政策が提案されるならば、いっそう不安のネタを作り出すことになる。(中谷内一也「リスクのモノサシ」NHKブックス)
 次から、次へと「食の不安」に対して「食の安全」のための政策は繰り出されるだろう。そして、その基準にもれたメーカーは、廃業するか、その基準を守るための高価な機械や、他の生産地を探し回ることになる。結局、そのコストは、消費者が負担することになる。食品の値上げが我慢ならないということになれば、安いけれど「食の不安」にまみれた闇市場が登場するか、政府が他の財源を探さなければならない。完全な「食の安全」社会は、大変高価な食料品の世界である。
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