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素人だから言えることもある

考える人間とファンタジー

はてしない物語

 「夢物語」で、僕はミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の言葉を引用した。
絶対にファンタージェンに行けない人間もいる。いるけれども、そのまま向こうに行きっきりになってしまう人間もいる。それからファンタージェンに行って、またもどってくる者もいくらかいるんだな。きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ」(ミヒャエル・エンデ著/上田真而子,佐藤真理子訳「はてしない物語」岩波書店
 僕は、このファンタージェンをこんな風に紹介した。
映画も音楽も演劇も小説も、すべての文化・文明は自らの「夢」を他人に伝えようとした者、言い換えれば、「夢」の世界から戻ってきた者によって作られているからだ。(「夢物語」)
 したがって、考えて何かを作り出す作業とは、自らのファンタジー(想像力・創造力)が豊かであるかないかにかかっている。そして、
(1)まず、夢を信じること。疑ってかかれば、すべては幻想に終わる。これは冒頭の絶対に行けない人間のことだ。

(2)また、必ず現実の自分に帰ってくること。帰れないということは、現実を忘れることである。帰れなかった人間は、自分で殻を作って自分の世界に閉じこもるイビツな人間になりやすい。

(3)「夢」を「夢」で終わらせないで、自分の成長の糧とすること。すぐれた「夢」に数多く触れた人間は心を豊かにする。(「夢物語」)

 つまり、考える人間とは心の中のファンタージェンが豊かだということだ。

「モモ」

 同じミヒャエル・エンデの「モモ」を引用した「時間が足りない」では、こんな要約をした。
 「モモ」とはこんな話だ。「モモ」という身寄りの無い女の子は、相手の話を何時間もかけてじっと聞く。すると、不思議なことに相手は自分の本質が、まるで鏡のように見えてくるのだ。そして自分が正しいか正しくないかを、納得して帰る。だから、町の人たちは皆「モモ」に話を聞いてもらいにくる。だが、ぱったりと町の人がこなくなった。その町に時間貯蓄銀行のセールスマンという灰色服の男たちが増えたためだ。彼らは、「時間の節約」を訴える。「時は金なりです。時間の無駄遣いをしていては、幸福になれません」町の人たちは、せかせかして「時間の貯蓄」を始める。人々は、心のゆとりを求めながら、心のゆとりを失っていく。余暇時間さえも、「時間」がもったいないからといって、「娯楽」を詰めこむだけ詰めこみ忙しなく遊ぶ。また子供たちにも、役に立つ遊びしかさせてもらえない。そして、言われたことだけ嫌々やり、好きなことをしてもいいよと言われると、とまどって何もできない子供に育つ。やがて人々は感情を失い、心が空っぽのせかせか動き回る灰色の男のようになっていく。集められた「時間」は決して人々には返らない。「モモ」が、その「時間」を取り戻すまで。
 この物語には、考えることすら時間を惜しみ、やがて考えない人間になっていく過程が描かれている。

「ピーターバン」

 ファンタジーは、なぜ子供のころに読むのだろう。しかし、最近は、大人びた子供が増え、始めから考えない子供が増えているような気がしてならない。
ジェームズ・バリの「ピーターパン」にこんな文章があった。
「ね、ウェンディ、最初に生まれた人間の赤ちゃんが、初めて笑い声を立てるとね、その笑い声がいくつにも小さく割れて、みんなそこいらじゅうを跳ね回るようになるんだよ。それが妖精のお誕生なんだ。だからね、子どもは男の子でも女の子でも、みんな一人ずつ妖精がついているはずなんだ」

「はずですって? それじゃあ、ほんとうはいないの?」

「うん、いないのさ。それはね、今の子どもは何でもよく知ってるだろう。だからすぐに妖精を信じなくなってしまうんだよ。それで子どもが『妖精なんかいるもんか』なんて言うたびに、どこかで妖精が一人ずつ倒れて死んでゆくんだよ」(ピーター・パン/秋田博訳/角川文庫版

「急行『北極号』」

 映画「ポーラー・エクスプレス」を見たときに、書いた文章がある。この「ポーラー・エクスプレス」は「急行『北極号』」(C・V・オールズバーグ著/村上春樹訳/あすなろ書房)が原作である。
映画「ポーラー・エクスプレス」を見て来た。映画のストーリーは単純だ。クリスマスイブの夜、北極でサンタクロースがこれから世界中の子どもたちにプレゼントを贈るためのイベントがある。主人公の少年たちはそのイベントに参加する急行列車「北極」号に乗り込んで行く。その列車に乗れる条件はサンタクロースを信じるかどうかである。

原作は「急行『北極号』」(C・V・オールズバーグ著/村上春樹訳/あすなろ書房)の絵本である。オールズバーグの暖かい緻密な絵がそのまま動き出したかのようなアニメーションであった。

少年たちはパジャマ姿のまま、列車に乗り込みクリスマスソングなどを歌って大喜びだ。一方、なかなか信じられない少年は列車に乗ろうかどうかで迷っている。映画の中で車掌がたびたび言う言葉がある。「見ることは信じること」という言葉である。

主人公の周りでも、サンタクロースの存在を疑う子どもが増えているという文章があった。ファンタジー世界では信じてもらわなければその世界に入り込むことができないという話が多い。「となりのトトロ」では、トトロを見たのは子どもに限られていたし、ピーターパンでもネバーランドにいけるのは子どもだった。ピーターパンが永遠に年をとらなかったのは、永遠の子供だったからである。

このことは「夢を信じる力」といってもいいかもしれない。逆に言えば、大人になればなるほど「夢を信じる力」は失せて行く。現実の苦難に立ち向かってなお「夢を信じ夢を語れる」人間は強い。多くの人間は現実に合わせてどんどん自分の夢を削っていくのが現状だからだ。

主人公はサンタクロースからプレゼント第一号の栄誉を与えられた。そのとき、主人公が望んだプレゼントはトナカイにつけられた鈴であった。それは主人公が初めて聞いた心ときめく音だったのである。サンタを待ち望んだトナカイの興奮した声とともに鳴らされた鈴の音。

やがて主人公は家に帰り、

ぼくは鈴を振ってみた。素敵な音がした。ぼくも妹も、これまで耳にしたことがないような音だった。でも母さんは「それ、だめじゃない」と言った。「うん、壊れているんだな」と父さんは言った。ぼくが鈴を振ったとき、その音は父さんにも母さんにも聞こえなかったのだ。(「急行『北極号』」)

昔、ぼくのともだちはだいたいみんな、その鈴の音を聞くことができた。でも年月が流れて、彼らの耳にはもう沈黙しか聞こえない。サラ(妹)だってそうだ。彼女はあるクリスマスの朝に、その鈴を振ってみたのだが、もうあの美しい音は鳴り響かなかった。ぼくはすっかりおとなになってしまったけれど、鈴の音はまだ耳に届く。心から信じていれば、その音はちゃんと聞こえるんだよ。(「急行『北極号』」)

人は、日常の忙しさの中で、リスクを追うことを避け、夢を語ることをしなくなる。それって大人になること?大人ってそんなに世界が小さいものだろうか。
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