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素人だから言えることもある

福祉国家の失敗〜40年前の「断絶の時代」を読む(3)

 「断絶の時代」を読んで、あまりにも現代日本の状況にぴったりだと思ったのは次の箇所である。

 しかし最大の幻滅は福祉国家の失敗だった。豊かな現代社会において、社会的なサービスや福祉が必要ないという者はそれほど多くない。だが福祉国家は社会的なサービスの提供以上のことを約束していた。それは幸せな社会を約束していた。創造性の解放を約束した。敵意、嫉妬、不和をなくすことを約束した。

 政府がどれだけ立派に仕事をしたかは問題ではない。事実分野によっては立派な仕事をしている国もある。しかしいかに立派に仕事をしていても、福祉国家なるものは、せいぜいが活力と創造性に富む保険会社並みの存在にすぎないことが明らかになった。誰も保険会社のために命を投げ出すことはしない。

(中略)

 今日ではあらゆる国に、費用ばかりかかり、いかなる成果もあげていない政府活動が無数にある。都市問題だけではない。教育がそうである。公共輸送がそうである。しかも福祉国家は、肥大化するほどに凡庸な仕事ぶりさえ期待できなくなる。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)

 まさに、年金制度しかり、介護保険しかり、後期高齢者医療制度しかり、道路問題しかり、国を頼みにしても、結局国民の思った通りにしてくれない。ドラッカーは、国の政策が官僚の意のままになっていることを指摘する。
 今日の政府はまさに統治不能となっている。あらゆる国が官僚とその官庁をコントロールできなくなっている。官僚と官庁はますます自律性を強め、自己完結的となっている。政策ではなく、自らの権力、自らの論理、自らの視野で、自らの方向付けを行っている

 これは、国家の方向性とリーダーシップに対する脅威である。事実あらゆる政策が細切れになっている。施策は政策と分離している。政策ではなく官僚帝国の慣性に支配されている。官僚は手続きによって仕事を続けている。人の常として、何が正しいかよりも、何が自らの省庁にとって利益かを重視し、何が成果をもたらすかよりも何が行政上都合がよいかを重視する。

 その結果、今日の福祉国家は優先順位を決められなくなっている。膨大な資源を集中させられなくなっている。したがって何もできないでいる。

(中略)

 おそらくは、この権力と現実の能力の乖離こそが今日の統治に関わる最大の危機である。われわれは行政機関を作ることには長けている。しかしそれらの機関は、設置されるや直ちに自らの目的を持ち、補助金を既得権益とし、一部納税者からの支持を手にし、政治からの独立を得る。誕生するや否や、公共の意思と公共の政策を無視できるようになる。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)

 このような官僚に言うことを聞かすことさえできない政治家が、現在の超大国の政府であるという。確かに、弱小国のいくつかは、王国や独裁国家である。このような国では、ストレートに政治家の命令が通る。だが、アメリカや日本ではどうか。周りの官僚を納得させなければ何もできないではないか。
 超大国の力はあまりに大きすぎて使い物にならない。ハエを叩こうにも、100トンの鉄槌しかなければ無防備と同じである。そのため超大国はソ連が東欧で行い、アメリカかコンゴ、サントドミンゴ、ベトナムで行っているように過剰に反応せざるを得ない。

 絶滅させあうことができ他の国を無視することができるだけの力というものは、政治上の目的には不向きである。同盟国を持つには強すぎ、従属国しかもつことができない。しかも世の常として従属国には嫌われつつ縛られる。

(中略)

 政府は経営者としてもお粗末である。巨大かつ複雑であって手続きにこだわざるを得ない。公的な金であるがゆえに、一銭一厘まで責任を明らかにしなければならない。まさに本来の意味において官僚的たらざるを得ない。

 政府は、法のもとにあるか人のもとにあるかは、議論の分かれるところである。しかしいずれにせよ政府は形式を重視せざるを得ない。なぜならば、最後の一割を管理するためには、最初の九割の管理以上にコストがかかるからである。すべてを管理するとなれば恐るべきコストがかかる。しかし、それが政府に課されることである。

 官僚制と形式主義が原因ではない。当然のことのためである。政府においては多少の間違いが致命傷となる。あっという間に全身を冒す。しかも間違いへの誘惑は大きい。

 財産のない月給取りが巨額の金を扱う。たいした地位でもない者が強大な権力をもち、建設工事、ラジオのチャンネル、航空ルート、区画整理、建築規制に関して他の人間にとって重大な意味を持つ契約や権利を与える。汚職を警戒すべきは当然である。しかしこのことは、官僚制とその結果としての高コスト構造はなくすことができないことを意味する。形式のもとにない政府は腐敗する。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)

 国民から負託を受けた政府である限り、監視されるのは当然である。しかし、行動のあらゆるところに口を挟まれ、しかも莫大なコストがかかる。企業が低コストなのは、競争があるからである。ライバル企業より安い価格でなければ消費者が買ってくれないからである。政治にも複数の政党があるのは、「自分の方がより効率的にできる」と主張するためである。ところが、政府はともかく、官僚が高コスト体質なのはなぜか。それは、三権分立のためである。
われわれは行政を政治から守るための制度をつくった。これが官僚制の目的である。しかし政治の恣意と圧力から行政を守るためのこの官僚制が、行政に携わる者が成果をあげなくともよいようにした。

 もちろん、建前としては行政の職にある者は有能であることになっている。だが現実には政治能力よりも執務上の凡庸さをよしとしている。特にこのことは、政治からの独立を最初に獲得した司法についていえる。行政についてこのことがどこまでいえるかはまた議論が分かれる。しかし今日では、官僚たちでさえ、成果について信賞必罰でなければならないとする者が増えている。

 とはいえ現状では波風を立てないことが評価される。すなわちイノベーションを行わず、イニシアチブをとることなく、前例に従うほうがよい。政治のほうも大きな問題にでもならないかぎり、行政の日常の仕事には関心を示さない。

 そのために日常の行政は放置され、あるいは手続きに従ってさえいればよい。能力のある者といえども、自らの閥をつくり子分をもたないかぎりトップになることはありえない。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)

 政府は、国民から監視され、思うように動かない官僚を使って政策を遂行させなくてはならない。ドラッカーは、この非常に扱いづらい政府を実行可能にするには政府活動の再民間化だという。
 政府の仕事は、社会のために意味ある正しい意思決定を行うことである。社会のエネルギーを結集させることである。問題を浮かび上がらせることである。選択を提示することである。換言するならば統治することである。

 しかしこのことは、すでに明らかなように実行することとは両立しない。統治と実行を両立させようとすれば、統治の能力が麻痺する。意思決定のための機関に実行させても貧弱な実行しかできない。それらの機関は実行に焦点を合わせていない。体制がそうなっていない。そもそも関心が薄い。

 今日軍や行政府や病院がマネジメントのコンセプト、原理、方法について企業を参考にしていることには、理由がある。

 企業はこれまでの30年間、今日の政府が直面している問題すなわち統治と実行の両立に取り組んできた。その結果アメリカの企業の経営陣は、この両者を分離し、特にトップの機関すなわち意思決定者を実行から分離させなければならないことを学んだ。さもなければ、決定はされず、実行もされない。企業はこれを分権化と呼んだ。

(中略)

 国における分権化とは、地方政府が実行の任にあたるという連邦制のことではない。実地、活動、成果という実行に関わる部分は、政府以外の組織が行うという原則のことである。この原則は再民間化と呼ぶことができる。

(中略)

 再民間化は、今日のいかなる社会理論も考えたことのない社会をもたらす。これまでの社会理論では、そもそも政府は社会の中の存在ではなかった。社会の外の存在だった。しかるに再民間化のもとにおいては、政府は社会の中の中心的な組織となる。(ピーター・F・ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳) 「ドラッカー名著集7 断絶の時代 (ドラッカー名著集 7)」ダイヤモンド社)

 なお、この「再民間化」の構想はイギリスのサッチャー首相が実行したという。
1980年代にイギリスのサッチャー政権が推し進めた民営化政策はこの著書が大きな動機を与えたといわれる。(ピーター・ドラッカーWikipedia)

新自由主義の立場に基づき、サッチャーは、電話会社(1984年)やガス会社(1986年)、空港(1986年)、航空会社(1987年)、水道事業(1990年)などの各種国有企業の民営化や規制緩和、金融改革などを断行。(マーガレット・サッチャーWiki)

 果たして、社会保険庁を「再民間化」すれば効果があるだろうか。それはともかく、この40年間、政府も官僚もなんら変わっていないことだけは骨身にしみて感じたのは確かである。
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