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素人だから言えることもある

「非正規日本人の反乱」の答えを「暴動」にしなかった理由

 僕は、最初「非正規日本人の反乱」の結論を暴動で収めようかと思った。しかし、日本人は、果たして、海外の人たちと同様に、暴動で自分達の怒りを表現するだろうかと思った。もちろん、ストライキとかデモとか、民主的な方法はいくらでもある。だが、それではあまりも怒りの表現に似つかわしくない。

 むしろ、日本人は、自分達の権利はいつも外から与えられるものだと思っており、自分たちで勝ち取ったという歴史がない。つまり、維新や改革はいくらでもあったが、いつもそれはお上の方から与えられたものであり、また、民主主義だって、たまたま日本が戦争に負けたおかげでアメリカから転がり込んできたものだからだ。もし、日本が勝ってしまったら、いまだに、民主主義はなかったかもしれない。

 いつも、日本人は怒りを表現することが下手だ。だから、文句を言いながらも、その地位に慣れてしまうのではないか。日本人の国民性として、他人の地位をうらやむことは恥ずかしいことだと思うのではないか。そしてまず諦めから始まる。そんな気がする。そう思ったのは、村上龍氏の「希望の国のエクソダス」のあとがきを読んだからである。なお、「希望の国のエクソダス」については、「この国には希望だけがない」でこう引用した。

この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない

(中略)

「なぜここに君がいるんだ?」
「この先の谷には数万発の地雷が埋まっていて、誰かが除去する必要がある、われわれの部族はそれをやっている」
「日本が恋しくはないか?」
「日本のことはもう忘れた」
「忘れた? どうして?」
「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない」
「この土地には何があるんだ?」
「すべてがここにはある、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある、われわれには敵はいるが、いじめるものやいじめられるものがいない」(「希望の国のエクソダス」村上龍著/文藝春秋)

 この本のテーマと同じく、日本人は「希望」をストレートに表現しない。同じように「怒り」も。その本のあとがきにこうある。
「龍声感冒」というわたしの読者が作るインターネットサイトの掲示板で、今すぐにでもできる教育改革の方法とは?という質問をした。(中略)残念ながら正解はなかった。

わたしが用意した答えは、今すぐに数十万人を越える集団不登校が起こること、というものだった。そんな答えはおかしいという議論が掲示板の内部で起こり、収拾がつかなくなった。

教育でも、他の問題でも、改革を行うためには、基本的には法律を変えなくてはならない。法律は国会で制定される。最近では議員立法も増えてきたようだが、たいていの場合は官僚が準備し、国会議員の賛成多数により法として機能するようになる。

その煩雑な手続きが民主主義と呼ばれるわけだが、わたしはそれを嫌悪しているわけではない。ただわたしは、教育に限らず、法律の改正という煩雑な手続きを前提にしない空疎な議論が多すぎることに苛立っていた。

だが、「数十万人を越える集団不登校」というわたしが用意した答えは、わたしの読者の掲示板で受け入れてもらえなかった。「何だ、そんな答えだったのか」という人もいた。それでわたしは中学生の集団不登校をモチーフに、小説を書くことにした。(「希望の国のエクソダス」村上龍著/文藝春秋)

 日本人はいつも、ストレートな意見に対して、そんなことはできっこないとか、すぐ難癖をつける。現実に、自分の周りで起こらない限り、危機感を感じないのだ。だから、日本人にもっとも似つかわしくない言葉として「暴動」という言葉を封印した
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