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素人だから言えることもある

ワイドショー化する日本

裁判のシステムもワイドショー

 5月から日本の裁判制度が変わる。欧米の陪審員制度を見習って、裁判員制度が始まるのだ。そのために、素人の裁判員にもわかりやすくするために、今までの裁判方法が変わったらしい。たとえば、江東区のバラバラ殺人事件の模様はこんな風だ。
殺害映像再現上映に弁護士「被告人の人格を破壊する」…江東区バラバラ殺害公判

 被告人質問で、検察側はマネキンを使った再現映像を上映。被告に遺体の切断状況を詳しく確認させた。これに対し弁護人が「被告人の人格を破壊する」と抗議。「本人は反省して認めているのに、ハイと答えざる得ない質問をすることが妥当なのか疑問を感じる。調書の朗読でいい」と申し立てた。検察側は「本人が状況を説明すべき。黙秘権もある」と反論。うつむいていた星島被告は弁護人の抗議を特に気にするそぶりを見せず「続けて下さい」と話し、裁判長は続行 を指示した。

 初公判から検察側は再現映像や、下水管から発見された被害者の肉片などの生々しい写真をモニターで映し出すなどの公判手法を取っている。この日も、星島被告が遺体の切断方法を描いたイラスト、被害者の生前の写真などを上映。一部の遺族がむせび泣く声が法廷に響いた。

 もちろん、検察側は、裁判員に対して、被告に対する悪印象を与えるのが目的なのかもしれない。さらに、このようにすれば裁判に員に対して、わかりやすく事件を説明することができると考えているのだろう。そしてその方法は、日頃から見ているテレビのワイドショーを取り入れたようにも見える。

 しかし、テレビのワイドショーは視聴者に事件を考えさせるためにこのような方法を使っているのではない。むしろ、視聴者をひとつの結論に誘導している、いわばシナリオどおりのストーリーなのである。ワイドショーでは、短時間にいくつものテーマが羅列される。そうなると、いかにインパクトのある映像をそこに持ってくくればいいのかを考えるのだ。たとえば、「あるある大事典」の調査報告書にこうある。

 「あるあるⅠ」「あるあるⅡ」は、まずテーマが設定され、それにふさわしい具体的な事実・真実・知識に焦点を当て、そこから手軽で有用なノウハウを引き出し、提示するという番組である。リサーチも実験も取材も、この流れに沿って進んでいく。

 言い換えれば、意図したテーマから外れたり、テーマに反するコメントや事実はいらないということである。それらは当然のように、切り捨てられる。事実や真実や知識がそれほど単純なもので はないことは、いくら強調してもしすぎることはないが、今はそのことはおいておく。要は、テーマに沿った、都合のよいコメントや事実が集められるというこ とである。そうやって編集が進み、番組として仕上げられていく。(テレビ局は永遠に間違え続けるのか)

 この姿勢は、現在のワイドショーも同じであることは明らかである。事実は、被告側・検察側、どちら側からも公平に選ばれなければ、その事実の認定すらできない。ところが、テレビのワイドショーでは、その検証すらされず、そのシーンで一番、ショッキングなところ、面白そうなところのみをつまみ食い的に繋いでいる。もし、検察側がそれを望んでいるとしたら、被告側には大変不利になるだろう

 たとえ、検察側が事実のみを公平に繋いだとしても、映像やイラストに頼るべきではないことは、理解できるだろう。人間というのは、言葉で語られるよりも、映像で語られるイメージは心の奥底まで残るのである。また、裁判員たちは、その事件に対して、口外してはいけないという規制がある。ところが、その事件に対して、報道された場合、それを自宅で見ないということは考えられない。そしてそれがテレビでワイドショーで報道されないはずはないのだ。それが裁判員に対して、刷り込みが起こる可能性もある。

「わかりやすく」とは、肝心の部分を省き、情報操作されること

テレビのワイドショーの問題は、「視聴者を一瞬でも考えさせたら失敗だ」というテレビの本質がそこにあらわれていることだ。もし、視聴者が「おかしいな」と思ったら、そのチャンネルは変えられてしまう。だから、いつもせわしく、次から次へと話題満載でなければならない。しかし、陪審員(裁判員)制度は、それと180度違う。一人ひとりの陪審員(裁判員)は、じっくりと証拠や調書を調べ、慎重に考えて判断しなければならない。ところが、ワイドショー方式では、裁判員たちは、考える時間も与えられず、イメージのみで判断しなければならないのだ。もちろん、私たち素人たちが裁判に参加するのは重要な権利である。ところが、その方法が確立されず、こんな形で与えられるのは、大きな誤解を与えかねない。

 いわゆる討論番組を見よ。彼らは、本当にディベートしているのか。彼らは、結局、自分たちの勝手な論理を言いっぱなしなのではないか。相手の論理を聞いて納得する出演者たちを見たことはあるか。それが台本どおりでなくて。

 僕は、「ショートカットな人生、ショートカットな社会」の中で、こう書いた。

 そして、参考書の重要ポイントである「ショートカット」がそうであるように、そもそもなぜそんなポイントになるのかをどこにも記載されない、「いやポイントだけ覚えればいいんだからね」という、本来学問で一番重要な、そこに至るまでの経過を省略し、ブラックボックス化した「権利書」という「ショートカット」なのではないか。
 このように、人生を楽に、楽にと考えること自体が「人間を家畜化」し、家畜になればそれが何でそうなっているか疑問に思わないし、そもそも考えない人間を作っているのではないか
 つまり、私たちは、既に牙を抜かれ、考えない家畜なのだ。自分の頭で考え、相手を説得できる「考える人間」にならない限り、本来の裁判員は生まれないだろう。


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