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素人だから言えることもある

人はなぜ、ダークサイドに惹かれてしまうのか・5

心の中のモンスターと小沢辞任

 前項「人はなぜ、ダークサイドに惹かれてしまうのか・4」で、僕はFF(ファイナルファンタジー)7のバレットの言葉を引用した。
モンスターの巣は、おれの中にあるのかもな」 (野島一茂著「On the Way to a Smile-FINAL FANTASY 7」スクゥエア・エニックス
 バレットは神羅への恨みを晴らすために、自分の右腕を武器に改造している。普通の人が見たら、彼こそがモンスターだと思うだろう。モンスターの心は誰も考えない。モンスターの心もモンスターだと思っているのが当たり前である。しかし、どれほど眉目秀麗な人でも心の中のモンスターはわからない。結局、外見で判断しているに過ぎないのである。

 僕は、単なる物語の仮定の話でなく、現実問題に即して説明しようと思っていた。はなはだ不謹慎ながら、小沢辞任問題にヒントを得た。

 小沢氏は、民主党の中で浮いている。小沢氏のこわもての外見や、今までの剛腕な政治手法のためかもしれない。小沢氏が気さくに声をかけられる人間でないので、真情を吐露できる友人がいなかったのではないだろうか。そのような人間であれば、自分の間違いは反省し、ここまでこじれることはなかっただろう。

また、例の「大連立構想」のような、いきなり何をしでかすかわからないため、気軽に冗談すら言えなかったような気がする。いわば、民主党にとって、小沢氏は「心の中のモンスター」状態だったのだ

心の中のモンスターは、あまり外に出ないときは、安穏でいいのだが、いったん外に出ると、嵐を呼ぶ。心が弱い民主党には、決断力のある小沢氏は必要だが、それが表面に出たとき、党が壊れる。何度も、党を壊してきた小沢氏は、できるだけ自分が目立たないように努力している。もっとも、そのことが世間の目に明らかなのはご愛嬌だが。「小沢さんなら何かやってくれる」。他の民主党員は、お坊ちゃまぞろいだけど、この言葉でみんな集まってきた。でも、党を壊す以外、何もしたことがないくせに。

心の怪物と怪物の心

 僕は昔、「私たちは、怪物を飼っている」という題で文章を書いたことがある。
映画「オペラ座の怪人」を見た。

監督のジョエル・シュマッカーは言う。

「この悲劇的なラブストーリーがわれわれの文化の一部になっているのは、ガストン・ルル−が描いた怪人を、自分と重ねることができるからだ。怪人は、われわれ人間が自分の中で嫌いな部分を具現化したものなんだ。彼は、ノートルダムのせむし男や、『美女と野獣』の野獣のように、悲しみにくれるキャラクターだ」(「オペラ座の怪人パーフェクトガイド」日経BPムック)

主演の怪人ファントムを演じたジェラルド・バトラー

「『オペラ座の怪人』がどうしてこんなパワフルな作品かというと、それは人々が彼の痛みに自分を重ねられるからなんだ」「年をとるにつれ、抱える心の荷物も大きくなる。手放したくないもの、もし世間に知られたら、周りが自分に嫌悪感を抱くかもしれないと恐れているものとかが蓄積していくのさ」(「オペラ座の怪人パーフェクトガイド」日経BPムック)

確かに人間は、心の中に隠しておきたい秘密の怪物を飼っている。だから、怪奇映画やホラーに惹かれるのだろう。「フランケンシュタイン」や「エレファントマン」など醜いのにその純粋なまでの生き方に涙するのはなぜだ。そして、彼らに石を投げる人たちがかえって醜く見えるのはなぜだ。それは、怪人たちの純粋さに心の中の怪物たちが共鳴しているのではないか。そして自分たちにはその純粋さすらなくなってしまったことを嘆いているのではないか。顔かたちはまともでも、顔と心は裏腹のモンスターになってしまったことを

 それでは、心の中のモンスターを外に出すということはどういうことか。
「良くも悪くも心が強い人間はソルジャーになる。ジェノバのリユニオンも関係ない」「でも、弱い人間は……俺のように簡単に自分を見失ってしまう」(希望1
 確かに、クラウドは心が弱かったゆえに人格崩壊まで起こした。それなら、セフィロスダース・ベイダーは心が強いようにも思える。いや、心が心の中のモンスターを抑える力だとすれば、彼らはモンスターがそのまま心に現れており、モンスターを抑える心すら存在していなかったに違いない。個人的な恨みが心の中のモンスターだとすれば、彼らの心はモンスターの配下になっていたのかもしれない。
オビ=ワンとヨーダはアナキンの子供たちがダース・ベイダーを倒すことを望んでいるが、彼らが理解していなかったのは、目的を達成する唯一の方法は、子供たちがアナキンの中に善があると信じることだった。アナキンの子供たちへの愛情が、ダークサイドから彼を引き戻し、真の悪である皇帝を抹殺して、予言通りフォースにバランスをもたらすのだ。だからこそ、アナキンはすべての源なのである。(ジョージ・ルーカススター・ウォーズエピソードⅢシスの復讐」プログラムより)
 ルーカスが言うアナキンの中に善があるということは、バレットもまたモンスターの心から解放されることがあるということだ。バレットには親友ダインの娘マリンがいる。誰かのために生きるということは、それだけで心を強くする

みんな心が弱っている

 僕は、「無痛文明論」のことを引用したことがある。
「家畜は環境を快適にコントロールされ、毎日食料を与えられ、ひたすら食べて眠ることをつづけながら生きています。その姿は、空調の効いた快適なオフィスで日々決まりきった仕事をする現代人の姿によく似ています。苦痛を避け、快適に暮らすことを目標に進んできた現代文明は、じつは人間を家畜化するだけなのではないか? 我々は安全と快適を得る代償に、生命の輝きを奪われてしまったのではないか?」(森岡正博著「無痛文明論トランスビュー社)の紹介記事より(メディアの望んだ世界
 アマゾンの本の紹介では、より詳しく書かれている。
「無痛文明」とは、苦しみとつらさのない文明のことである。たとえ苦しみやつらさがあったとしても、そこからどこまでも目をそらしてゆく仕組みが、社会のすみずみにまで張りめぐらされている文明のことである。われわれは、そこで快適さや快楽を得るが、それとひきかえに、「よろこび」を奪われ、自分を内側から破って自己変容する可能性を閉ざされてゆく。その先にあるものは、何か。それは、快楽と眠りに満ちた、生きながらの死の世界だ。すべての人々が表面上はにこにこ笑いながらも、心の奥底では絶望して、かつその絶望からも用意周到に目をそらし続けていくような世界だ。

無痛文明論』は、この悪夢のような世界をどこまでも描き込んだ。自傷行為にはしる子どもたち、空虚な快楽ゲームにはまる大人たち、管理化される自然環境などの向こう側に、われわれは「無痛文明」の姿を感じ取ることができる。

「無痛化」を引き起こす原動力は、われわれ自身の内部にひそむ「身体の欲望」だ。苦しみよりも快楽のほうがほしい、手に入れたものは手放したくない、隙あらば拡張したい、他人を少々犠牲にしてもかまわない、人生と自然をコントロールしたいという「身体の欲望」が、現代社会を次々と無痛化する。「欲望」が「よろこび」を奪うというのが、現代文明の本質なのである。

無痛化する現代社会のなかで、悔いのない人生を生き切るためには、どうしてもこの「無痛文明」と戦わなくてはならない。しかしながら、「無痛文明」とは、それと戦おうとする者の力を吸い取りながら、ますます強大になってゆく文明なのである。

 この地獄のような敵を前にして、われわれにはいったい何が可能なのか。私はこういう本を、もう二度と書くことはできない。エッセイでも、論文でも、文学でもなく、かつそれらすべてであるというこの本は、ジャンルを超えて読者を挑発することだろう。(「無痛文明論」著者について

 欲望は執着の別名である。執着を捨てることが、希望の道なのに、誰もそれができない。そして、心の中のモンスターは、日に日に大きくなり、それを諌める心は次第に弱ってくる。そして、心の中のモンスターで悩み苦しんでいる人を見ても、その人に手を差し伸べることを思いもしないし、それを他人事として見ないことにする。それでいて、自分は欲望にどっぷりとつかる。そうなると、あれほど遠かったダークサイドがすぐ側に来ている。
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