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素人だから言えることもある

原爆症患者の費用まで、なぜ日本政府が支払わなければならないのかという素朴な疑問

国が負けるということは

 とうとう原爆症認定で今回も政府が負けた。18連敗だという。
原爆症認定、救済広げる判決 東京高裁 政府、基準の緩和検討

 原爆症の認定申請を却下された東京都などの被爆者30人が、国に処分の取り消しを求めた東京第一次訴訟の控訴審判決が28日、東京高裁であった。稲田龍樹裁判長は国が昨年4月に導入した「新基準」で対象外となった原告10人のうち、9人を原爆症と認定し却下処分の取り消しを命じた。原告30人のうち1人を除く29人が原爆症と認められた。

 確かに被害者に対しては、補償が必要である。だから幅広く全ての人に対して、補償をしてもらいたいと思う。でも、公害補償と同じように、原爆症補償まで広げることには疑問である。もちろん、僕は原爆症で悩む人たちを否定しているわけではない。ただ、なぜ日本政府なのかということだ。メディアは、原爆症患者側を善に、政府や厚労省側を悪にして報道する。だが、裁判で国が負けるということは、結局私達の国民の税金で補償することなのだ。メディアは当然ながらそれに触れようとしない。

 そもそも、原爆症になったのはなぜか。アメリカが原爆を落とし、日本が負けたからである。アメリカに対して、原爆症の補償を要求できないから、肩代わりに日本政府が支払わざるをえないからだ。つまり、原爆で戦争に負け、裁判に負け、二度負けたことになる

武器が悪いか人が悪いか

 なぜ、アメリカに補償を要求できないのだろうか。それは、アメリカ側が第二次世界大戦を「正しい戦争」とし、悪い日本を叩くためには原爆を使用してもやむをえないと考えていたからである。僕は「テロリズムと神、幕僚長の奇妙な思想」で、
人を殺すのは人であって銃ではない」(全米ライフル協会スローガン)

 アメリカでは銃を登録して所持している者だけでも8000万人を超えているという。このスローガンは、銃を包丁や車と同列にとらえている。包丁や車は使う人間によっては便利な道具となったり、凶器となる。銃もまたそのように考えろとでもいっているようだ。しかし、銃で料理を作ることもできなければ、人を乗せてドライブすることもできない。銃は、人間を殺傷するためだけに作られたものである。このスローガンを拡大解釈してみるには、「銃」を武器や(核)兵器に変えてみればよい。武器それ自身が戦争を起こすのではない。武器を持った人間が戦争を起こすのだ。したがって、その武器を持った人間が悪人であれば、同じ武器を使って悪人を殺してもよい。もし、武器を持つこと自体が違法であれば、武器を使って悪人を処分できないではないか

 日本人は、まず武器をなくせばそれに頼る人間も減るだろうと考える。だが、そんな単純なことで、アメリカを説得できるのだろうか。たとえば、かつての広島市長が訪米したとき、日本の責任のあいまいさが彼らの行動の壁となった。
 それでは、原爆投下の責任はどう考えられていたのだろう。原爆投下はアメリカ政府の責任であり原爆投下は国際法違反ではないか、という訴えはあった。しかし、平和運動による原爆投下責任の糾弾は少なく、核兵器の破壊力や戦争の非人道性に焦点があてられている。戦争の主体に関わる議論、戦争は誰が起こしたのかという議論が、平和運動の中では奇妙に抜けている。主体の閑却は、日本の責任の閑却にもつながる。原爆の投下はアメリカ政府の行為としても、そのもとの責任は日本にある、という言い方もできる。戦争を開始したのは日本であり、中国を侵略しなければ、あるいは真珠湾を攻撃しなければ、広島・長崎への原爆投下もなかったといえるからだ。

しかし、被爆体験を語る人たちが、原爆は愚かな戦争を始めた報いだと語ることも、まれだった。核兵器の廃絶と、戦争の廃絶が呼びかけられ、投下したアメリカの責任も、また日本の戦争責任も、戦争という「絶対悪」のなかに吸収されてしまう。

「主体」を除いた「戦争」が糾弾された一因は、広島・長崎の被爆体験が、これから核戦争が起こる脅威と結び付けられて語られたことにある。原爆投下を大量殺人として糾弾することよりも、核戦争の到来を恐れ、核兵器の廃絶を訴える声の方が大きかった。将来の戦争の防止の方が、過去の戦争責任よりも重大だった

海外から見れば、アジアにおける戦争では日本が侵略国なのであり、その侵略国における平和の呼びかけは、言葉どおりには受け取られなかった。海外からの観察者たちは、このヒロシマから発信される平和のメッセージに、さめた反応をすることもあった。(藤原帰一著「戦争を記憶する・広島・ホロコーストと現在」講談社現代新書)

 よく国内で言われるのは、「唯一の被爆国である日本は原爆の恐ろしさを訴える権利がある」という言葉だ。だが、被害者の立場で語ることは、結局、アジアやアメリカの被害者たちを怒らせる。アジアでは日本は侵略国であるから、原爆投下は当然だと考えられているというのだ。この加害者の責任が明確でないために、日本の平和運動がなかなか広まらないためではないだろうか。だが、戦争を続けるだけでは、何の利益なく自分たちの国が衰亡する他ないのはどこの国も知っている。日本の「平和運動」の方法も変えていなければならない時代が来たのかもしれない。
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