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素人だから言えることもある

マイケル・ジャクソンとピーター・パン

 亡くなったマイケル・ジャクソンに、「ネバー・ランド」という、彼専用の個人遊園地があった。思いだしたのは、やはり「ネバー・ランド」という名の映画だった。ここにに掲載するのは、2005年に書いた「どこにもない国」というタイトルの文章である。

大人になりたがらない子どもは多いが、子どもの心を持った大人は少ない。現実にいると気味悪がられたり、誤解されたりする。したがって心の中に隠し持っている大人も多い。そのような数少ない代表格として、「不思議の国のアリス」を書いたルイス・キャロルや「ピーターパン」を書いたジェームズ・バリがあげられる。

そんなバリの登場する「ネバーランド」を見てきた。バリは劇作家である。芝居が失敗して公園で次の企画を練っていたとき、4人の少年を連れた未亡人と出会う。その三男の名をピーターという。とここまで読むと、読者は「ははーん」と思うだろう。このピーターが「大人になりたがらなかったのか」と。実はピーターは大人になりたくて仕方がなかったのだ。父をなくした痛手を大人になることで、まぎらわしたかったのである。バリが少年たちと遊んでいてもピーターだけは横を向いていた。バリはその気持ちを痛いほど知っていた。バリもまた子どものころ兄を亡くしているのである。

バリにとって6歳のとき、当時13歳だった聡明な兄ディヴィッドをスケート中の事故で亡くしたことは、生涯消えない衝撃的な出来事だった。悲しみに打ちひしがれた母親を慰めるため、バリは兄の仕草や口笛を吹く癖を真似したり、何とディヴィッドの服まで着て、兄の身代わりになろうと努力したのである。小柄なバリは、兄が亡くなった年齢になって、成長することを止めたと言う。(「ネバーランド」パンフレットより)

バリがピーターの名前を借りてまで「ピーターパン」の芝居を書いたのは、子どもの大切なときこそ、夢や希望に想像の翼を広げてもらいたいと考えたからである。「ピーターパン」にこんなエピソードがある。

「ね、ウェンディ、最初に生まれた人間の赤ちゃんが、初めて笑い声を立てるとね、その笑い声がいくつにも小さく割れて、みんなそこいらじゅうを跳ね回るようになるんだよ。それが妖精のお誕生なんだ。だからね、子どもは男の子でも女の子でも、みんな一人ずつ妖精がついているはずなんだ」
「はずですって? それじゃあ、ほんとうはいないの?」
「うん、いないのさ。それはね、今の子どもは何でもよく知ってるだろう。だからすぐに妖精を信じなくなってしまうんだよ。それで子どもが『妖精なんかいるもんか』なんて言うたびに、どこかで妖精が一人ずつ倒れて死んでゆくんだよ」(ピーター・パン/秋田博訳/角川文庫版)

 大人になれば、父を亡くしたこの悲しみもまぎれるに違いないと思っていたピーター、兄とともに生きていたバリ、子供のころの輝きを忘れられないマイケル。彼らは、いずれも子供時代を引きずり、大人になったとき、やはり悲しみは深まっていくばかりなのを知った。大人が子供のころを忘れるのは、思い出すことで同時に子供のころ感じた悲哀も生まれててくるはずだから。子供のころはいつも輝いていた。そう思うことができるのは、子供時代を忘れた大人だけが許される。そしてそのことは、子供時代との決別。だが、ピーターや、バリ、マイケルたちは、決して子供時代を忘れることは出来ない。

 マイケル・ジャクソンは50歳になり、大人になることを止めた。大スターの死因が、いずれも謎に満ちているように、マイケルの死因も謎だらけである。マイケルは、「ネバーランド」についてこう語っている。

ピーターパンは僕が心の中に持っている特別な象徴なんだ。ピーターパンからイメージするのは若さ、子供時代、大人にならないこととか、Magicとか、空を飛ぶこととか、僕はそういったものにずっと魅力を感じ続けていて、そして何よりも大切なものだと感じ続けているんだ」(マイケル・ジャクソン-Wikipedia)
マイケルはリアル世界で生きることをやめ、夢の世界に生きることを望んだのである。
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